伊勢型紙の歴史

 伊勢型紙がいつごろから始まったのかはっきりしたことはわかりません。言い伝えでは奈良時代(720年頃)から存在したとも言われていますが、これだけ高度な型紙技術が奈良時代にあったものとは考えられず、もっと後代につくられたものではないかとの説もあります。



白子不断桜
白子子安観音の境内にある不断桜。冬でも花が咲いているのでこの名がある。この桜の葉の虫食いの跡をヒントに伊勢型紙が作られたという伝説がある。


 型紙が確実に存在した証拠としては、室町時代に狩野吉信という絵師によって描かれた「職人尽絵」の中に型紙を使って着物を染めている職人の姿が描かれていて、このときにはすでにかなり高度な型紙技術が存在していたことがわかっています。

 鈴鹿市の白子で型紙が行われていたとわかる最初の記録としては1595年に寺家白子の型紙業者が当時、奄芸郡上野城主であった分部氏へ保護を願い出たということが記録として残っているそうです。



伊勢上野城跡

 安芸郡河芸町にある分部氏の居城跡、現在、本城山公園


、後、江戸時代に白子は紀州藩のものとなりました。三重県は津に城のあった藤堂藩のものでしたから、こんなところにポツンと飛び地の形で、紀州藩領がおかれていたわけです。なぜこんなところに紀州藩の飛び地があったのかはわかりませんが、そのころの白子は良質の港であり交通の要であったということです。(一説では、本能寺の変の時、明智光秀に追われた徳川家康は、この白子の港から逃げ出したと言われています。また、緒方拳さんの主演の映画『オロシャ光太夫』で有名な大黒屋光太夫は、この白子の港を出帆し、遭難してロシアの地をさまようことにまります。)



白子街道道標

 街道筋に今も残る道標、白子は交通の要所であった。


 紀州藩は、徳川御三家の筆頭で8代将軍徳川吉宗を輩出しました。江戸時代には大変な権力を持っていたのです。伊勢型紙の業者達は紀州藩から「駄賃帳」「絵符」「鑑札」そして「通り切手」を貰い受けました。これを持って伊勢型紙の行商人は全国各地を廻り歩いたのです。この効力は大変なもので関所をフリーパスであったばかりか、宿泊料金や人馬賃が公用扱いの格安のものとなり、旅行中の苗字帯刀まで許されたのでした。こうして伊勢型紙は紀州藩の庇護のもとに発達したのです。



紀州藩白子代官所(奉行所)跡

 現在白子小学校の一角にある。


 明治に入ると伊勢型紙の技術には「室枯らし」「紗張り」等、新しい技術が考案されましたが、業界は徐々に衰退の一途をたどり、大平洋戦争中には、伊勢型紙業者はほとんど壊滅状態となりました。

 戦後、昭和27年に伊勢型紙は文化財保護委員会から重要無形文化財として指定され、昭和30年には「南部芳松」「六谷紀久男」「児玉博」「中島秀吉」「中村勇二郎」「城ノ口みゑ」の6名が人間国宝に選ばれました。このうち、現在も御存命の方は糸入れの「城ノ口みゑ」さんだけとなっています。(PS 2003年1月16日、城ノ口みゑさんも御亡くなりになりました。)

 現在、伊勢型紙は着物の染め型としてだけではなく古くて新しいインテリアとしても注目されるようになり、伊勢型紙の愛好者も急激に増加しています。ぜひ、あなたも伊勢型紙の世界に足を踏み入れて見て下さい。

参考資料・伊勢型紙業界産地診断報告書(三重県)