編集後記

防空頭巾の少年木彫写真

(写真)村川 昇作 木彫 防空頭巾の少年

 ホームページは、視覚が勝負です。ですから、本当は、もっとたくさんの写真を使いたかったのですが、探してみると使えるような写真は、あまりありませんでした。母が、ほとんど燃やしてしまっていました。母にとって亡くなってしまった父の痕跡を見ることはつらいことだったのでしょう。ですから、このような短歌集を作ることにも母は、前から反対していました。(写真の一部は、ホームページ作成にあたり、新たに保護者の方等に提供していただいたものです。)

 私は、母のそんな気持ちを言い訳にして、ここまでずるずると短歌集の発行を伸ばしてきました。

 今年の春頃から、体調をこわし、しばらく父が入院していた同じ病院に入院していました。父のような深刻な病ではないのですが、しばらく、食事も通らない日々が続きました。

 父が入院していた間、いったい何を考えていたのだろうと思わずにはいられませんでした。

 父が始めて教壇にたったのは、島勝の健常児の小学校でした。(母とは、そのころ知り合ったようです。)

 その後数年して、喘息の病に襲われたのをきっかけとして、障害児教育に興味をもつようになりました。そこで当時、県が行っていた研修制度を利用し、身重の母を残して、単身、京都教育大学へ障害児教育の研修に行きました。そして帰ってくると早速、飯野小学校で特殊学級を受け持つことになります。

 その後、津の県立城山養護学校に赴任し、生涯にわたり、障害児教育にたずさわっていくこととなりました。


 父は教師生活の長くを県立城山養護学校で過ごしました。しかし、教師生活も終わりの頃になって県立稲場養護学校、県立西日野養護学校と、まるで、自分を苛むかのように、次々と、より困難で重度の障害児のいる養護学校へ転任していきます。

 最後の赴任先となった西日野養護学校では、この短歌に見るように、生命として生きるための能力も拙いような最重度の障害児の教育にたずさわることとなります。そして、障害者問題に対する多くの人々の無理解にも苦しめられることになります。

 その苦労はいかばかりだったのか、一番理解していなかったのは、ほかならぬ息子である私でありました。ひょっとすると、その心労が、父の死を速める結果となってしまったのかもしれません。

 この短歌集を編集することは、父の精神の遍路をもう一度トレースする又とない機会となりました。

 ここで、もう一首、残された父の短歌を紹介しておきましょう。


死ぬなればこのように空を飛べるのか霧深き山を先達といく

 父は、昭和の終わった年の父が最も恐れていた8月15日(終戦の日)の前日にその生涯を閉じました。

 最後になりましたが、このホームページを作るにあたり常磐井猷麿氏や、磯部則男氏を始め、父の同僚であった先生方、父の教え子やその父母の方々等、生前の父を知る多くの皆様の御協力をいただいたことに感謝いたします。

編集責任者 村川 実


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