<三重大学学生当時>
三重大学文芸部の詩集
僕はその夜 | ||
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汽笛のような笑声で 悪魔は僕を呪い笑う。青い峰、高い頂きに はね返った−お前の笑い声は 蚤の様な素早さで悪魔の口にはねもどる 馬鹿者共はやって来い。 雨がやってくる。冷えびえとした ねずみ色の空、舞い落ちる。天使の顔形(マスク) |
地上に降りたら、地下へずり込め 僕はそこで眼ざめた雨蛙 けるゝ、けろ、るゝ 音沙汰のない友を恋うた。 友は逝いた、花火をくって 野原の中で口を開いて舌を出して 僕達は一人の友に けるゝゝと通夜した。 |
五月の天賦 | ||
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若い女の病床の褥(しとね)の臭は 五月の臭気だ 蒼空の許を 流れる絹布は海に落ち ちか、ちかと 五月の鯉は 僕を射る 自然の沈黙は 深海魚の それ 五月の畸型の窓枠は 青い脂肪で いっぱいとなる |
女は病床から顔を挙げ 腋にたまった汗を拭く そこで 五月の悪臭は 病室に 解ける 女は 旅を夢み 黄色い手を 僕に差し出す 乳房の窪みで 五月の旗手が 赤旗を振る |
<三重アララギ会の頃>
昭和42年三重アララギ合同歌会にて・後列左から3番目が村川 昇氏
さざ波に映えし陽のかげ室内をしばし明るく照しゆきたり 結婚式を挙げたしと言ひ眠りゆく君が乳房の重みがつたふ フカなどの急所をさすちふ刃物出し柿をむけとぞ老婆は言えり 秋の日は肢体がすんなり伸びてゐて少女は髪に無数の瞳をもつ 風吹かぬ部屋をば妻はくたびれて畳に汗をこぼしてゐたり いさかひの後の笑顔よこの妻をこの安らぎのままにおきたし 薄給のわれにたよりて嫁ぎ来し妻余程の時でないと化粧せぬ 視野広き干潟にむかふ君が墓に蜂おとろへて冬日浴びゐる 死体曵くリヤカーのみが弔問の群より離れ松のなかゆく 発言せぬ子等を叱りてゐし吾もときに卑屈に言へぬを嘆く ガザ地帯守る兵等の大写しあごのあたりのニキビが見ゆる 海溝にしづみし鉄のつめたさか冬の海は湾内にとどまる オーバの衿立て山を上りくる”あたたかみはどこへ行ったの”鉄骨佇つ対岸 わが意志より鋭き背鰭持つ魚が朝の市場に凍りてゐたり 鉄骨がからまりて建つ市場には水凍りゐて蛸のみ動く 海近き静かなる町物を売る老女がありて目刺し焼きをり |
障害児教育に取り組み始めた頃・後列左、村川 昇氏
精薄児のぬくみのこれる教室の椅子にかがみてシンフォニー聴く 知恵うすき教え子なれば叱責を明るき眼にてうけとめてゐる 知恵うすき子等とよこたふ草原は競ひてとりし早蕨を枕に 知恵もうすき聾児の足に稚魚の群れが寄りくればこのあどけなき顔 僅か数日教へしのみの子供等が近づきぎはに服さはりてゆく 大きコップ小さきコップに水満たせ精薄児らは歯を磨きゐる 癲癇のしづまりし精薄児は鳥のごとく澄みし眼にて空をみてゐる 「家鴨みたいよ」麻痺児等が言えば案内の技官は雨の笹原をかけゆきぬ 「先生お耳かいてね」とあどけなく上下肢麻痺のS児ゐざりくる 数日蝶の群のなかを行く長崎列車蝶を吸ひつつひた走りゆく 屁のごとくときに音のするはいづこぞ朝明け枕をひびきてきこゆるは 柔らかく握れと言ふも麻痺の掌につぶれゆく金魚草の花 麦の穂の果にひろがる伊勢の海麻痺の子等を高く抱きぬ 拍手のなかを卒業しゆく麻痺児等職とてない世間へ重重しくゆく 足なえの君につき芝草を取らむと寄れば教へ子はもう女の肌よ りすのごとき眼をむけてくる君のこと思ひつつわれはいつか眠りぬ 勁椎牽引中のあけみはわが気配に素早く手鏡を向けきぬ 麻痺のたつやは四肢を強直させあごひげが痛いと抱きし手を逃る 言葉も麻痺のU子は野原に出でし喜びを口をあけて訴へかける |
おどけた恰好で子供たちと遊ぶ |
津御殿場海岸での障害児と健常児の交流子ども会にて |