障害児教育に挺身し始めた頃の彼の歌だ。拙い表現の中から真情が率直に伝わって来る。現場を私も見学したが、重度の障害児の一人一人に注ぐ愛情がよく感じられた。
そして昭和五十七年、K町のある寺へ出向いた時に、「常磐井さん」と呼びかける者があるので、見ると彼であった。「どうしてここへ」と聞くと、「近くなので寺の手伝いに来た」と言った。思いがけない出合いで、恐らく十年ぶり位のことではなかったか。その日はそれ切り、姿を見なかった。
それから五年、昨年のことだ。角川短歌賞の発表を見ていささか驚いた。何と、彼の作品が候補に上がっていて、田谷鋭・岡井隆・佐々木幸綱らのお歴々が論評しているではないか。「いつの間に・・・、また短歌に戻って来たのか」。すぐにも何か言ってやりたかったが、今年の年賀状まで延びてしまった。その返事があったのが四月下旬である。
前々年に臓腑のいくつかを全摘する手術を受けたこと、これがきっかけで養護学校当時のことを歌にまとめておきたいと思うようになったこと、前年十一月に再入院再手術、三月に三度目の入院をして現在に至っていること、四月に入って食事が通らなくなったが気力に満ちていること、短歌の手ほどきを受けたことが病気を克服する上で随分役に立っていること、病床にあってこれまでの経験や日常を客観的に見ることができるようになったこと、初心にもどって作歌したいこと、等々が整然と書き列ねられていた。すぐに病院を知らせてくれるように手紙したが、返事が来たのが七月半ばであった。
それは、葉書に震える字で、手術をして一週間になること、やっとこの世に戻ってこられたという気持ちであること、「手術中も色々とお話をしたいと思っていました」と五行に記されて、病院名が書いてあった。取るものも取りあえず駆けつけると、思ったよりやつれもなく、落ち着いているように見えたが、声がすっかり出にくくなっており、その声をしぼって、あの葉書は一日がかりで、やっとの思いで書いたといった。食事は水もまだ通らないとのことであった。
しかし、三度目に見舞った時は食事が摂れるようになっていて、箸を持つのは三月以来だと言った。声も随分楽に出るようになり、もう大丈夫だと喜び合った。この日は病室に彼一人だったこともあって、少し長くおしゃべりした。二度目の手術の時、一九四五年八月十五日が恐ろしい力で迫って来て彼を苛んだという。この問題をこれから考えて行かねばならないと思う、と言った。歌をまとめて発表するので又見て欲しい、とも言った。暫く来られないことを言って別れたが、快方に向かうことを信じて帰路は足も軽かった。
「私にとって短歌とは何か」という課題に、今私は全く関心がない。止むを得ず、この友人と短歌との関わりを考えることで責をふさぎたいと思ったのだが、これも読者に考えていただくより他にない。ただ、彼がもし元気で職場に出ていたとしたら、歌に戻ることはなかったろうと思う。恐らくそれは定年退職後のことになったであろう。これは短歌の持つ性格を現わしているのではあるまいか。
短歌賞の候補になった彼の歌を、その評言の中から拾い出してみる。
|