ある友と歌

常磐井猷麿

 友人の告別式から今帰ったところである。彼は中学、高校での一年後輩で、文芸部で一緒になった。彼は小説を書き、歌を作り、詩を書いた。私の影響で三重アララギ会へも入会して、永井皐太郎、岩田吉人らの酷しい批評を受けた。彼は歴史に関心が深く、彼の書く歴史小説は見所があるように思った。

 私は文芸部を彼に任せて卒業したが、彼の作歌は途絶えながらも続き、三十四年、私が学業を了えて三重アララギ会の世話をするようになった時、教員になっていた彼も又入会して来た。「三重アララギ」の創刊号から暫くの間は、彼が習ったばかりのガリ版を切って印刷をしてくれた。それは甚だ読みにくいものであったが、それもこれも彼らしい不器用さであり、純朴さであった。

 当時、白馬会という、人生を語り合う青年の会を作ったが、これにも彼は参加した。これは不思議な会で、特に目的もなく、単に各自が自分の生き方のさまざまを語り合うだけの会であったが、新聞の会合欄に報知しただけで、種々雑多な職種の男女が集まった。一度きりで姿を見せない人もあったが、毎回新しい人が参加した。最盛期には四十名近くも集まったであろうか、青年ばかりではなく、御老人も青年と語りたいと参加して来られた。彼は後に、この会で会の作り方を学んだと言っていたから、中心メンバーでなかったにせよ、彼なりに得るものがあったのであろう。家が一身田に近かったこともあって、彼はよく尋ねて来た。結婚して互いに二児の親となっても、家族ぐるみで遊園地に遊んだりした。

 その後彼は障害児教育に献身し、三教組の煩雑な事務を引き受けるようになって、次第に歌とも遠ざかり、顔を合す機会もなくなってしまった。共産党員になったということも風の便りに聞こえてきたが、それをたしなめて手紙を出したように思うが、返事を貰った覚えはない。

柔らかく握れと言うも麻痺の掌につぶれゆく金魚草の花

麦の穂の果にひろがる伊勢の海麻痺の子等を高く抱きぬ

拍手のなかを卒業しゆく麻痺児等職とてない世間へ重々しくゆく

 障害児教育に挺身し始めた頃の彼の歌だ。拙い表現の中から真情が率直に伝わって来る。現場を私も見学したが、重度の障害児の一人一人に注ぐ愛情がよく感じられた。

 そして昭和五十七年、K町のある寺へ出向いた時に、「常磐井さん」と呼びかける者があるので、見ると彼であった。「どうしてここへ」と聞くと、「近くなので寺の手伝いに来た」と言った。思いがけない出合いで、恐らく十年ぶり位のことではなかったか。その日はそれ切り、姿を見なかった。

 それから五年、昨年のことだ。角川短歌賞の発表を見ていささか驚いた。何と、彼の作品が候補に上がっていて、田谷鋭・岡井隆・佐々木幸綱らのお歴々が論評しているではないか。「いつの間に・・・、また短歌に戻って来たのか」。すぐにも何か言ってやりたかったが、今年の年賀状まで延びてしまった。その返事があったのが四月下旬である。

 前々年に臓腑のいくつかを全摘する手術を受けたこと、これがきっかけで養護学校当時のことを歌にまとめておきたいと思うようになったこと、前年十一月に再入院再手術、三月に三度目の入院をして現在に至っていること、四月に入って食事が通らなくなったが気力に満ちていること、短歌の手ほどきを受けたことが病気を克服する上で随分役に立っていること、病床にあってこれまでの経験や日常を客観的に見ることができるようになったこと、初心にもどって作歌したいこと、等々が整然と書き列ねられていた。すぐに病院を知らせてくれるように手紙したが、返事が来たのが七月半ばであった。

 それは、葉書に震える字で、手術をして一週間になること、やっとこの世に戻ってこられたという気持ちであること、「手術中も色々とお話をしたいと思っていました」と五行に記されて、病院名が書いてあった。取るものも取りあえず駆けつけると、思ったよりやつれもなく、落ち着いているように見えたが、声がすっかり出にくくなっており、その声をしぼって、あの葉書は一日がかりで、やっとの思いで書いたといった。食事は水もまだ通らないとのことであった。

 しかし、三度目に見舞った時は食事が摂れるようになっていて、箸を持つのは三月以来だと言った。声も随分楽に出るようになり、もう大丈夫だと喜び合った。この日は病室に彼一人だったこともあって、少し長くおしゃべりした。二度目の手術の時、一九四五年八月十五日が恐ろしい力で迫って来て彼を苛んだという。この問題をこれから考えて行かねばならないと思う、と言った。歌をまとめて発表するので又見て欲しい、とも言った。暫く来られないことを言って別れたが、快方に向かうことを信じて帰路は足も軽かった。

 「私にとって短歌とは何か」という課題に、今私は全く関心がない。止むを得ず、この友人と短歌との関わりを考えることで責をふさぎたいと思ったのだが、これも読者に考えていただくより他にない。ただ、彼がもし元気で職場に出ていたとしたら、歌に戻ることはなかったろうと思う。恐らくそれは定年退職後のことになったであろう。これは短歌の持つ性格を現わしているのではあるまいか。

 短歌賞の候補になった彼の歌を、その評言の中から拾い出してみる。

キャスターをつけし板車に子を乗せて鵜匠のごとく子をばあやつる

失禁を世話せし途中に母はきて「ああ三日ぶり」と子の頭抱く

われ等が掌さしのべざれば生きられぬ子等はわが膝に寄りて休むよ

のごとくである。

彼の初期、昭和三十年前後の歌を引く。

結婚式を挙げたしと言ひ眠りゆく君が乳房の重みがつたふ

秋の日は肢体がすんなり伸びてゐて少女は髪に無数の瞳をもつ

いさかひの後の笑顔よこの妻をこの安らぎのままにおきたし

薄給のわれにたよりて嫁ぎ来し妻余程の時でないと化粧せぬ

視野広き干潟にむかふ君が墓に蜂おとろへて冬日浴びゐる

初心に返って作歌したいと言った、その時間を天はどうして与え給わなかったのか、恨めしく思うばかりである。

(三重県歌人クラブ会報53より抜粋)

常磐井猷麿氏
三重アララギ会を経て、現在アララギ派短歌会を主宰
真宗高田派本山法主
高田福祉事業協会々長

わら半紙にブルーのインクで刷られたガリ版

村川 昇氏によるガリ版刷りの三重アララギ創刊号

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