●水鏡に書かれた恵美押勝の娘の悲劇
さて、この恵美押勝の乱について、「水鏡(みずかがみ)」に少しとんでもない話が書かれています。
恵美押勝の乱の起る前・・・・恵美押勝に、皆があこがれる・・・・とても美しい娘がいたのですが、その娘の人相を、鑑真和上(がんじんわじょう)が見る
機会がありました。
ちょっと岩波文庫から出ている版から、原文のまま、抜き書きします。
「その大臣の女おはしき、色かたちめでたく、世にならぶ人なかりき。鑑真和上の、この人千人の男にあひ給う相(そう)おはす。とのたまはせしを、たゞう
ちある程(ほど)の人にもおはせず、一二人程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣うちとられし日、味方のいくさ千人悉(ことごと)くに、この人をおかして
き。相はおそろしき事にぞ侍(はべ)る。」
盲いとなった鑑真が、相を見たという事が、そもそもとんでもない話ですが・・・この鑑真(がんじん)が、姫を見て、「この人は、千人の男性と結ばれる運
命だ。」と予言したというのです。
深窓(しんそう)の令嬢(れいじょう)の事ですし・・・そんな事はないだろう・・・・この美しい姫とつり合うだけの男性など宮廷(きゅうてい)内を見渡
してもなかなか捜せるものでは無く、1人か2人と結ばれるのさえ難しい・・・・と誰もが思ったのですが・・・・恵美押勝の乱で・・・押勝が殺されると・・・・
味方の兵士達、千人が一斉に姫に襲(あそ)いかかり、予言は、現実の物となった・・・と書かれているわけです。
文は「相(そう)とは恐ろしい物だ・・」と結(むす)ばれているわけですが・・・・私は、この話は、「恵美押勝(えみのおしかつ)の乱」がいかに残虐
(ざんぎゃく)で恐ろしく・・・そして、正義の欠片(かけら)もない戦いだったかを伝えるエピソードだと思います。
この少女は、次女である東子(とうこ・あずまこ)、又は、三女である額(ひたい)だと推測されます。天平宝字5年(761)正月2日の叙階の記事にその名がみえます。
●なぜ恵美刷雄(よしお)は殺されなかったのか?
さて、こうして、恵美押勝の一族の全てがことごとく殺される中、すでに、「恵美押勝の乱1」の中で抜き書
きしたように、第6子の刷雄(よしお)だけは、殺されず隠岐(おき)に流されました。続日本紀には「仏道修行をしていたため」と書いてありますが・・・・果たしてそうなのでしょうか?
吉備真備の2度目の渡唐の前、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年(752)3月9日の続日本紀の記事に「遣唐使の副使(ふくし)以上を内裏(だいり)に招集し、詔(みことのり)
して節刀(せっとう)を与えた。よって大使で従4位上の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)清河(きよかわ)に正4位下を、副使で従5位上の大伴(おおとも
の)宿禰(すくね)古麻呂(こまろ)に従4位上を、留学生(るがくせい)で無位の藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)刷雄(よしお)に従5位下を授(さ
ず)けた。」とあります。
すなわち、この記述から、刷雄(よしお)は、吉備真備(きびのまきび)や大伴古麻呂(おおとものこまろ)達と一緒に留学生として唐に渡った事がわかります。
おそらく、刷雄(よしお)は、吉備真備や大伴古麻呂達と近(ちか)しかったでしょう・・・・父である押勝を止める事は出来ませんでしたが、刷雄(よし
お)は、
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)事件の処分などにも反対していたかもしれません・・・。
●唐の国を脱出してきた恵美刷雄
いや、考えてみれば、刷雄(よしお)が、この場面で登場している事が、そもそも奇妙なのです。刷雄(よしお)は留学生として唐に渡りました。留学生と
して渡った者は、阿倍仲麻呂、吉備真備、橘逸勢の例で見たように、20年、唐の都に滞在(たいざい)して、その知識を学ぶ事になっていました。まだ、この
時には、誰も唐の国の動乱を予想していなかったはずです。ですから、刷雄は、
吉備真備(きびのまきび)や大伴古麻呂(おおとものこまろ)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)達が、日本に帰る時も、一緒に帰る理由は無く、唐の国に残った
はずなのです。
いったい、いつ日本に戻ってきたのでしょうか?これは、わざと記録から排除(はいじょ)されているとしか思えません。しかし、間違(まちが)いなく、刷
雄(よしお)は、安史の乱を逃れ、日本にたどりつき、唐の国の情勢を伝えたはずです。
おそらく、刷雄は、唐の国で楊貴妃と会った事もあったでしょう・・・・吉備真備も吉備由利(きびのゆり)も、刷雄(よしお)を殺すにはしのびず、助命嘆
願(じょめいたんがん)をしたのではないでしょうか。
そして、この刷雄(よしお)が殺されなかった事は・・・・この恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の原因が・・・橘奈良麻呂事件・・・そして、唐の国の安史
の乱が大元(おおもと)であったという事を表していないでしょうか?
●廃帝となった淳仁天皇
この恵美押勝の乱の後、孝謙上皇は、淳仁(じゅんにん)天皇を廃帝にし、淡路国に流しました。淳仁天皇は、翌年、幽閉(ゆうへい)された噴(いきどお)
りに堪(た)えられず逃亡、途中で捕まえられて引き戻されたあげく、押し込められた一郭(いっかく)の中で斃(こう)じました。
淳仁天皇に落ち度はなかったはずです。もし、あったとしたら、天皇としての能力がなかったにも関わらず帝位についていたという点でしょうか・・・自分の
意志ではなく奉(まつ)り上げられ、そして、そのために生命まで落とす事になった・・・・恵美押勝に操られ、利用されただけの哀れな末路でした。
そして、孝謙上皇(高野天皇)は、称徳(しょうとく)天皇として、再び、政権の座に返り咲きました。
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