正史である続日本紀の記述に従うならば、先の話で、称徳天皇の崩御(ほうぎょ)のお話は、終わりなのですが・・・・ここに、もう一
つ、別の話があります。
●称徳天皇の別の死の真相を伝える「藤原百川伝」
今は、散逸(さんいつ)して残っていませんが・・・「藤原百川(ふじわらのももかわ)伝(でん)」という文書があったようです。
これは、この龍神楊貴妃伝に今から登場する藤原百川(ふじわらのももかわ)・・・・この称徳天皇が亡くなった時点では、雄田麻呂(おだまろ)と名乗って
いましたが・・・・その男の伝記です。
なぜ、そのような文があった事がわかるかと言えば・・・・その「藤原百川伝」が、「続日本紀」以外の平安時代に成立した歴史書である「日本紀略(にほん
きりゃく)」「水鏡(みずかがみ)」、それから鎌倉時代の説話集(せつわしゅう)である「古事談(こじだん)」に引用(いんよう)されていると思われるか
らです。
●続日本紀は真実を伝えているか?
一般には、正史である「続日本紀(しょくにほんぎ)」と内容が異なる事から、「日本紀略(にほんきりゃく)」「水鏡(みずかがみ)」「古事談(こじだ
ん)」に書かれている事は「藤原百川(ふじわらのももかわ)伝」から始まるでっち上げだ・・・・とも言われているのですが・・・「藤原百川伝」がいつ頃書
かれたのかはっきりしません。百川(ももかわ)が亡くなって、まもなく執筆(しっぴつ)された可能性もあります。
だいたい「続日本紀」は、藤原百川の一族である藤原式家(ふじはらしきけ)が、政権を執(と)っている時代に編成(へんせい)されたもので、式家にとっ
て都合の悪い内容は、わざと削除されている疑いがあります。最近の研究(「律令(りつりょう)貴族成立史(せいりつし)の研究」吉川敏子)によれば、桓武
(かんむ)天皇によって編纂(へんさん)される前の元本(がんぽん)の「続日本紀」には、
藤原百川伝に書かれている内容が書かれていたのではないか?ともされているのです。
いずれにせよ・・・今から書く内容は、きわめて古い時期から伝えられていた可能性があり・・・無視する事は出来ません。しかし、あまりにもえげつない内
容ではあります。・・・・しかし、かつて南方熊楠(みなかたくまぐす)翁(おう)が指摘されたように・・・人間の本質は、けっして綺麗(きれい)なものだ
けではありません・・・私の中にも、そのような部分が、少なからずあります。この時代の人間にも、共通してあった事は、間違いないでしょう。そして、それ
を無視して語ろうとする事は、人間と歴史の本質を見誤る事にもなりかねないと思います。
●藤原百川と吉備真備の間の深い因縁
藤原百川は、藤原式家の租となった宇合(うまかい)の八男です。兄には、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、藤原良継(ふじはらのよしつぐ)がいます。藤
原広嗣(ふじわらのひろつぐ)も、藤原良継(ふじはらのよしつぐ)も、すでに、この龍神楊貴妃伝に登場してきていますので、あるいは、覚えていらっしゃる
かもしれません・・・。
藤原良継(ふじはらのよしつぐ)は、歌人で有名な大伴家持(おおとものやかもち)や、後に空海のスポンサーとなった佐伯今毛人(さえきのいまえみし)と
示(しめ)し合わせて、恵美押勝(えみのおしかつ)の暗殺計画を立てた人間です。
藤原良継は、このため官位を剥奪(はくだつ)されましたが、後の恵美押勝の乱で武功(ぶこう)をあげ、この称徳天皇が崩御(ほうぎょ)する寸前には、従3
位・参議(さんぎ)にまで上がっていました。(この時代は、藤原宿奈麻呂(ふじはらのすくなまろ)と名乗っていました)
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、称徳天皇の崩御(ほうぎょ)時には、すでにこの世にいません。
藤原広嗣は、吉備真備の陰陽学(おんみょうがく)の弟子と言われていましたが、吉備真備の親友である玄ム(げんぼう)の宮子姫(みやこひめ)とのスキャ
ンダルに反発し、吉備真備(きびのまきび)と玄ム(げんぼう)を弾劾(だんがい)して反乱を起こして亡くなっています。
このために、式家(しきけ)は、他の南家(なんけ)や北家(ほっけ)から遅れをとり、藤原百川も不遇(ふぐう)を託(かこ)ってきました。
すなわち、藤原百川たち、藤原式家にとって、吉備真備(きびのまきび)や玄ム(げんぼう)の弟子である道鏡(どうきょう)は、はじめから不倶戴天(ふぐ
たいてん)の敵であったわけです。
※ちなみに、百川の父である宇合(うまかい)は、養老(ようろう)元年(717)遣唐副使として、阿倍仲麻呂や吉備真備、玄ム
(げんぼう)等と共に、入唐しています。この点でも、百川は彼らに因縁深いものを感じていたでしょう。
参考
藤原百川(ふじわらのももかわ)
(天平4年(732年) -
宝亀10年7月9日(779年8月28日))は、奈良時代の公卿(くぎょう)。初名は雄田麻呂(おだまろ)。藤原式家(ふじはらしきけ)の祖である、参
議・藤原宇合(ふじわらのうまかい)の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣(だじょうだいじん)。また、神護景雲(じんごけいうん)3年
(769年)には新設の河内職大夫(かわちしょくたいふ)にも任ぜられた
日本紀略
平安時代に編纂された歴史書で、六国史(りっこくし)の抜粋(ばっすい)と、六国史以後後一条天皇(ごいちじょうてんのう)までの歴史を記す。範囲は神代
(じんだい)から長元(ちょうげん)9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。
成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされるが不明である。編者もわからない。本来の書名もはっきりしない。『日本史紀略』、『日本史略』、『日本史
類』とも呼ばれていた。
古事談
『古事談(こじだん)』は、鎌倉初期の説話集。村上(むらかみ)源氏(げんじ)出身の刑部卿(ぎょうぶきょう)源顕兼(みなもとのあきかね)(源顕房(み
なもとのあきふさ)5代目の子孫、1160年-1215年)の編。建暦(けんりゃく)2年(1212年)から建保(けんぽう)3年(1215年)の間に成
立。
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