●不思議な吉備由利の死の記録 再び、主人公である吉備由利(きびのゆり)に話を戻しましょう。・・・・といっても、吉備由利の記録は、後、一つしか残っていません。
それは、続日本紀の宝亀(ほうき)5年(774) 正月2日の記事に簡単に・・・・
「尚蔵(くらのかみ)(後宮の蔵司(くらのつかさ)の長官(ちょうかん))・従三位の吉備(きびの)朝臣(あそん)由利(ゆり)が斃(こう)じた。」とあるだけです。
他に何も残っていませんし、何も書かれていません。
ここからわかることは、前に、称徳天皇に代わって、政務を動かしていた時の官職は、典蔵(くらのすけ)(後宮の蔵司(くらのつかさ)次官(じかん))と記載(きさい)されていましたので・・・すなわち、次官から長官に上がったんだなあという事ぐらいです。
しかし、私は、こうである事自体に、不審(ふしん)を感じます。
●弔伝の書かれていない吉備由利
続日本紀には、重要な人物が亡くなった場合、出来るかぎり、弔伝(ちょうでん)を書いてあります。
吉備由利(きびのゆり)は、尚蔵(くらのかみ)・従三位と高い地位にあり、今まで、書いてきたように、称徳天皇の代役として活躍したほどの人間です・・・・・。もう少し、何らかの記述があってもよいのではないでしょうか?
●役職と官位が一致していない吉備由利
もう一つ・・・・吉備由利の地位が、従三位(じゅさんみ)である事にも疑問を感じます。
吉備由利は、神護景雲(じんごけいうん)2年(768) の10月13日の記事の時点で、すでに従三位を与えられた事が記事に見えています。
吉備由利が亡くなった時には、従三位をいただいてから、約5年たっています。
蔵司(くらのつかさ)は、後宮12司の中の最上位とされていた官です。 尚蔵(くらのかみ)は、そのトップであり、その准位(じゅんい)は、正三位(しょうさんみ)とされてきました。
吉備由利は、尚蔵を拝命した時点で、正三位をいただいていなければおかしい・・・。
ですから、私は、「尚蔵(くらのかみ)従三位(じゅうさんみ)吉備(きびの)朝臣(あそん)由利(ゆり)薨(こう)」(原文のまま)というのは、普通の記事ではないと感じます。
●吉備由利の死は他殺か?
ひょっとすると、この時、吉備由利は、政権の座を追われて、殺されているのではないでしょうか?
吉備由利が、称徳天皇が亡くなってからも、しばらく政権内で力を持っていた事は間違いないでしょう。
●光仁天皇政権下でも力をふるっていた吉備由利
称徳天皇の愛人であった弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、称徳天皇が亡くなった直後は、称徳(高野)天皇の御陵(みささぎ)に仕えていました。その後、
陰謀(いんぼう)が発覚したとして、朝廷は、道鏡の弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)、その息子の広方(ひろかた)・広田(ひろた)・広津(ひろつ)を土佐
国(とさのくに)に流しましたが、道鏡(どうきょう)そのものは、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を考えると刑罰(けいばつ)を加えるのは忍びないとして、
造(ぞう)下野国(しもつけのくに)薬師寺(やくしじ)別当(べっとう)に任じられ派遣(はけん)されています。
この道鏡の罪の軽減を嘆願(たんがん)したのは、称徳天皇の意志を理解し、想っていた吉備由利以外にありえないでしょう。
この権勢(けんせい)を誇っていた由利が、 宝亀(ほうき)5年(774) に生命を落とすまでの間に何があったのか?
私は、それを解く鍵(かぎ)が井上(いがみ)内親王(ないしんのう)事件にあると考えます。
参考
蔵司(くらのつかさ)
蔵司(くらのつかさ)は、神璽(しんじ)、関契(かんけい)(三関の割符(わりふ))、天皇・皇后の衣服を管理することを掌(つかさど)った。皇位の象徴で
ある神璽(しんじ)、兵乱時に重要な関契(かんけい)を管理する職務の重要性から、令(りょう)の制度では後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)の中でもっ
とも高い地位を与えられていた。
准位(じゅんくい)は、尚殿(くらのかみ)(定員1名)が正三位、典殿(くらのすけ)(定員2名)が従四位、掌蔵(くらのじょう)(定員4名)が従七位。この他女孺(にょじゅ)10名で構成されていた。
尚蔵(くらのかみ・しょうぞう)蔵司(くらのつかさ)の長官(カミ)に相当する。准位は正三位(しょうさんみ)。
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