龍神楊貴妃伝

井上内親王事件2(「水鏡」に見る井上内親王事件の顛末)

●光仁天皇の妻であった井上内親王

  井上内親王(いがみないしんのう)は、新しく天皇になった光仁天皇(こうにんてんのう)の妻です。感覚的にわかりにくので付け加えるなら、光仁天皇は、 709年生まれですので、今、舞台としている年代では、だいたい60代の前半・・・・井上内親王は、養老(ようろう)元年(717)生まれですから・・・ 称徳天皇(しょうとくてんのう)より1つ上・・・・ですから、吉備由利(きびのゆり)が楊貴妃(ようきひ)だとすれば、由利より2つ上ですが・・・・女子 は全員50代で・・・ほぼ、同年齢です。

●称徳(高野)天皇の姉であった井上内親王

 井上内親王の父は、聖武天皇(しょうむてんのう)で、井上内親王は聖武天皇の第一皇女(だいいちこうじょ)です。すなわち、称徳天皇(しょうとくてんの う)の異母姉(いぼあね)ということになります。
 5歳の時に、斎王(さいおう)(伊勢神宮に出仕(しゅっし)する未婚の皇女(こうじょ))に選ばれ、11歳の時に、伊勢神宮の斎宮(さいくう)に出 仕・・・その後、19年間を斎王として暮らし・・・・結婚の夢もあきらめていたのですが・・・30歳の時に、斎王の任を解かれて、白壁王(しらかべのお う)(後の光仁天皇)と結婚します。

●天武天皇と天智天皇の血をひく皇子(佗戸親王)を産んだ井上内親王

 井上内親王は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)38歳の時に酒人内親王(さかひとないしんのう)を産み、さらに天平宝字(てんぴょうほ うじ)5年(761)・・・・なんと45歳で、佗戸親王(おさべしんのう)を産んだとされています。
 そして、先に書いたように宝亀元年(770)に夫の白壁王が天皇に選ばれ、井上内親王が皇后になるわけですが・・・白壁王が天皇に選ばれる時、衆目 (しゅうもく)の賛同(さんどう)を得られた理由の一つには、井上内親王(いがみないしんのう)が天武(てんむ)系の血筋を引いていて、その子である佗戸 (おさべ)親王は、天智系と天武系の両方の血を引いていると考えられたからだとも言われています。

●呪詛の罪によって皇后を廃された井上内親王

 宝亀3年(772)3月2日、井上内親王は、呪詛(じゅそ)の罪によって、皇后を廃(はい)されます。その年の5月27日には、佗戸(おさべ)親王も皇 太子から外され庶民(しょみん)に戻されます。
 続日本紀からは、裳咋足嶋(もくいのたるしま)というものが自白し、粟田広上(あわたのひろえ)、安都堅石女(あとのかたしめ)というものが、事件に関 係していたという事がわかりますが・・・・それ以上の内容はわかりません。

●「水鏡」に記録された「井上内親王事件」

 しかし、「水鏡(みずかがみ)」に、その時の話が詳しく書かれています。
 古文だとわかりにくいので、ちょっと私なりに意訳しながら内容を紹介します。
 まず、はじめは・・・・ここは、私の想像ですが・・・・きっと、光仁天皇は、井上内親王に仕えている吉備由利の姿をみかけたのでしょう。
 光仁天皇と井上内親王の夫婦の間の・・・今でもありそうなちょっとした戯(たわむ)れから、物事が起ります。

 宝亀(ほうき)3年(772) 光仁天皇(こうにんてんのう)が、井上(いがみ)内親王に博打(ばくち)をしようと持ちかけ、こんな事を言いました。
 「儂(わし)が負けたら、そなたに、男盛(ざか)りの男を紹介しよう。おぬしが負けたら、儂に、あの絶世(ぜっせい)の美女を紹介してくれぬか?」
 しかし、思いもかけず、帝(みかど)は負けてしまいました。
 「さあ・・・・いつになったら、男を紹介してくれるの?」と井上内親王は、冗談半分に帝を責めました。
 百川(ももかわ)は、それを聞きつけると、じゃあ山部親王(やまべしんのう)を紹介したらどうですか?と帝に勧(すす)めました。
 山部親王とは、桓武天皇(かんむてんのう)の事です。
 さて 百川(ももかわ)が、また、山部親王(やまべしんのう)のところにおもむいて、「帝(みかど)から、このように申し給わっております。尊い方のお言葉です から、拒否なさいませぬよう。帝の思うようになされませ。」と申しますうちに、帝は山部親王を呼び出して「こういう事態になった。后(きさき)のもとへ行 け!」と命じられました。
 山部親王は、おそれかしこまって、「そんな事は出来ません。」と言って拒否なさいました。
たびたび強く言っても、なお拒否されていましたが、「孝(こう)と言うのは、父の言うことにしたがうことじゃ。儂(わし)は年老いて、后の相手をすること が出来ん。はやく、后のもとへ行って相手をせよ。」
と責(せ)められましたので、しぶしぶ、 遂(つい)に后(きさき)のもとに行く事になりました。

 さて、后は、この親王(しんのう)をいみじきものになさいました。とても、けしからん話です。この時、后は56歳になっておいででした。
 この后のお腹(なか)の御子(おこ)が佗戸親王(おさべしんのう)で、帝の第四の皇子(おうじ)です。まだ、未(いま)だ幼い年頃で、今年12歳になっ ていらっしゃいましたが、この后のお腹の子でいらっしゃいましたので、兄たちを差し置いて、この正月に東宮(とうぐう)(皇太子(こうたいし))に選ばれ ておりました。

 后(きさき)は、御年(おとし)も御年ですし、皇太子の御母親(おははおや)ということもあって、堂々(どうどう)としていらっしゃらなければならない のですが、このとき山部親王(やまべしんのう)は、まま子ではありますが、皇太子候補(こうたいしこうほ)としては良き御年(おとし)で、今年36歳に なっていらっしゃいました。そこで、后は、又、この山部親王を亡(な)きものにしようと考えられました。とても見苦(いぐる)しい話ではないでしょうか?

 井上内親王は、常にこの山部親王(やまべしんのう)を呼んで相手をさせ、帝に見せつけ、帝を疎(うと)んぜられましたので、帝は、恥(は)じ恨(うら) んでおりました。
 百川(ももかわ)はこの事を察(さっ)すると、井上(いがみ)内親王が呪詛(じゅそ)のため、井戸に呪(のろ)いを入れ帝(みかど)を殺して、我(わ) が子の東宮(とうぐう)を帝位につけようと企んでいると報告します。
 百川(ももかわ)は、その呪(のろ)いの証拠を見せた上で、次のように、光仁(こうにん)天皇に言いました。
 「このように証拠は、すでにそろっています。また、后(きさき)の宮の内の8人は、よこしまな事を考えていて、人道(じんどう)に堪(た)えません。人 の妻を奪(うば)ったとして、男(山部親王(やまべしんのう))にいろいろと仕掛(しか)けをした後、さらに、その男を殺そうなどと、このような事を申し ています。この8人を捕えて憂(うれ)いを絶ちましょう!」
 帝(みかど)が、そのことを許すと、百川はさっそく兵を出して、その8人を打ち殺しました。
 井上(いがみ)内親王は怒って、光仁(こうにん)天皇の御所へ押し掛け、「老いぼれが!あんたは、自分が老いぼれた事を理解せずに、何でうちの家来たち を殺させるの!」とののしりました。

 百川は、この事を聞いて「大変な事になりましたなあ・・・后をしばらく、縫殿寮(ぬいどのりょう)に押し込めて、反省してもらいましょう。又、東宮(と うぐう)(佗戸親王(おさべしんのう))にも悪い心が見えます。世のために、たいへん困ったことです。」と言いました。
 そうして、天皇の許可をとり、3月4日に、井上内親王の后(きさき)の位を奪(うば)って、出頭せよ!と申し付けたのですが、后は出頭もせず、屋敷内に ひそかに巫(みこ)達を呼び寄せ、帝を呪詛(じゅそ)させました。
 百川(ももかわ)は、それを聞きつけて、巫達を捕えようとしましたが、巫達は先に逃げてしまいました。
 すると、百川は、その巫の親を呼び出して、こういう風に伝えました。
 「恐れる必要はない。ありのままに白状(はくじょう)すれば、位を授(さず)けるぞ。」
 そこで、この事が巫(みこ)に伝わり、巫は次のように白状してきました。
 (筆者注 ※きっと、続日本紀にある「裳咋足嶋(もくいのたるしま)」がその巫でしょう。)
 「天皇に危害(きがい)を加えようした罪は、逃れる事が出来ません。后宮(きさきのみや)は、我らを召して、様々(さまざま)な贈物(おくりもの)を下 さいましたので、どうしようと思っていたのですが、ただ、帝(みかど)のために、帰(かえ)って寺々に読経をして、悪(わる)い心をつゆも起こさないよう にと願ってくださいと伺(うかが)いました。」
 百川(ももかわ)は、この事を帝に伝え、帝は、この巫(みこ)を呼び出して問い詰めたところ、皆が白状しました。
 帝は、この事を聞いて涙を流し・・・・「儂(わし)は、后(きさき)を少しも嫌(きら)いではないのに・・・・なんで、こんな事になるんだろう・・・・ いったいどうしたらいいだろうか?」とおっしゃいました。
 百川は、それを受けて「この度(たび)の事は、世の中の人々が、皆聞き及(およ)んでいます。何とかしなくてはなりませんぞ!」と申しましたので、天皇 は「本当に、何とかしなくてはならん!」と后の御封(みふ)などを皆、没収(ぼっしゅう)してしまいました。
 しかし、后は、さらに懲(こ)りる様子も無く・・・ただ帝にさまざまの悪口雑言(あっこうぞうごん)を吐き、みだりがましく聞くに堪(た)えないような 言葉でののしりました。
 百川が、「東宮もしばらくの間、退けて、心が鎮(しず)まるのを待ちましょう。」と申しましたので、帝はそれを許しました。
 そこで、百川は、いつわって宣命(せんみょう)を作り、人々を集めて、太政官(だいじょうかん)で宣命(せんみょう)を発表しました。これは、皇后(こ うごう)ならびに皇太子(こうたいし)を解任(かいにん)し、追放(ついほう)するというものでした。
 この事を人づてに聞いた天皇は、びっくりして、百川(ももかわ)を呼んで「后(きさき)が懲(こ)りないから、しばしの間、東宮(とうぐう)をしりぞけ よと申したのに、どうして、こういう事になったんだ。」と言うと、百川は、
「しりぞけよとは、永遠にしりぞけよという事と同じです。母に罪があれば、子も然(しか)りです、まさに解任(かいにん)し、追放(ついほう)するに足 (た)る罪状(ざいじょう)です。」と少しも引く事なく、これもひとえに帝のためと言われれば、百川への怖(お)じ気も感じて、それ以上の追求(ついきゅ う)も出来ませんでしたが、帝は、内面、ひどく嘆(なげ)き悲しむ事になりました。
 これも、すべて、百川の策略(さくりゃく)で、苦労の謀事(はかりごと)である事は、言うまでもないことです。

●藤原百川の陰謀であった「井上内親王事件」

 これを読むかぎり、この井上(いがみ)内親王事件が、全て、藤原百川(ふじわらのももかわ)(藤原式家(ふじはらしきけ))の策略(さくりゃく)であっ た事は、間違いないでしょう。
 井上(いがみ)内親王が帝(みかど)や山部親王(やまべしんのう)を殺そうとしたというのは、百川のつくりごとでしょうし、井上内親王は、夫への当てつ けのために、山部親王と仲の良いそぶりをしていただけだったでしょう。
 あとは、追い込まれて、自分の感情(かんじょう)のままに行動せざるおれなかっただけの話で、何の罪(つみ)もありません。
 百川は、仲の良い夫婦だった光仁天皇と井上内親王の心の隙(すき)につけ込み、光仁天皇(こうにんてんのう)の対応を、悪い方へ悪い方へと誘導(ゆうど う)して、遂には、決定的な破滅(はめつ)の道へと追い込んだのです。

 おそらく、光仁天皇は、先の真備への文章(ぶんしょう)でも見たとおり、人間としての資質(ししつ)は悪くなかったのでしょう。
 しかし・・・・いかんせん、人が良すぎました。
 人が良いというのは、弱点でも何でもありませんでしたが、百川(ももかわ)のような狡猾(こうかつ)な奸計(かんけい)の前では、無力でした。
 光仁天皇は、自分がお人良しで、そういった他人を欺(あざむ)くような資質(ししつ)を持っていなかっただけに、他人の悪巧(わるだく)みの想像も看破 (かんぱ)も出来ず、ころりと騙(だま)される事になってしまったのでしょう。

 余談(よだん)ですが・・・・後、山部親王(やまべしんのう)(後の桓武天皇(かんむてんのう))は、井上(いがみ)内親王の娘である酒人内親王(さ かひとないしんのう)を愛し、妻とします。
 山部親王(やまべしんのう)が、井上内親王(いがみないしんのう)を女として、どう見ていたのかは、ちょっと複雑(ふくざつ)なところですね・・・。

参考
酒人内親王(さかひとないしんのう) 
酒人内親王(さかひとないしんのう)(天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754年) - 天長(てんちょう)6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇(こうにんてんのう)の皇女。母は皇后 (こうごう)井上(いがみ)内親王。伊勢(いせ)斎王(さいおう)、のち桓武天皇(かんむてんのう)妃(ひ)。

容貌(ようぼう)殊麗(しゅれい)。柔質(じゅうしつ)窈窕(ようちょう)。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛(ちょうこうのかたさかん)。(中略)性(せ い)倨傲(きょごう)にして、情操(じょうそう)修(おさ)まらず。天皇(てんのう)禁(きん)ぜずして、その欲(よく)する所(ところ)に任(まか) す。婬行(いんこう)(あるいは媱行(みめ))いよいよ増して、自制(じせい)する事(こと)能(あた)はず
『日本後紀(にほんこうき)』 逸文(いつぶん)天長(てんちょう)6年8月丁卯(ひのとう)(20日)条(『東大寺要録(とうだいじようろく)』 巻10所引)の薨伝(こうでん)
意味
大変に美しい容貌(ようぼう)で、その体つきはなよやかである。桓武天皇の寵愛(ちょうあい)は深く、その性格(せいかく)はわがままで気まぐれ。しか し、天皇はこれを咎(とが)めず、酒人内親王の思いどおりにさせた。その婬行(いんこう)(あるいは媱行(みめ)・美しさ?)はいよいよ増(ま)して、自 制(じせい)することはできなかった。



解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版