龍神楊貴妃伝

沈既済の書いた狐の美女の物語

●安史の乱の時代を生きた史学者 沈既済

 沈既済(しんきせい)という史学者がいます。
 正確な生涯は不明なのですが、玄宗の時代の後期に生まれ、そして、粛宗(しゅくそう)・代宗・徳宗の時代を生きた事がわかっています。
 おそらく、安史の乱と楊貴妃の死は、沈既済の青年時代に起った事件であったでしょう。

●楊貴妃をモデルにした?狐の物語「任氏伝」

 この沈既済が、楊貴妃をモデルにしたと考えられる狐の物語「任氏伝(じんしでん)」を書いています。

 物語の舞台は、玄宗皇帝末期の長安の都、天宝九年 (750)と書かれています。楊貴妃が安史の乱で、亡くなったとされている年代は756年ですから、それより、ほんの少し前です。

 そこに、鄭六(ていろく)という貧しい青年が住んでいました。 鄭六には、韋崟(いぎん)という気の会う仲間がいたのですが、韋崟は、金持ちで、酒好きで女好きで・・・鄭六は、韋崟におごってもらう立場で、いつも、引 け目を感じていました。

  鄭六は、馬が買えないので、ひょこひょこと驢馬(ろば)に乗って街を歩いていたのですが・・・・ ある時、 とてつもなく美しい白衣の女性を見かけます。  鄭六は、一瞬で心惹かれて、女性の後になり、先になり、ついていくのですが・・・・(現代ならストーカー扱いされるかもしれませんが・・・)ついに、思 い切って声をかけました。 「なんで、貴女のような美しい方が乗り物もなしに歩いていらっしゃるんですか?」
 そうすると、女性は、 「それは、だって、誰かさんが・・・・乗り物を貸してくれないからですわ・・・」と答えます。
 鄭六は、喜んで、驢馬を貸し、徒歩で、女性の家までついていく事になりました。  女性の家は、大層立派な家で、女性は、自分の名前は、任氏(じんし)だと言いました。
 鄭六は、そこで、手厚いもてなしを受け、任氏の美しさからも、まるで、夢見心地で家に帰るのですが・・・・任氏に会いたいと、もう一度、任氏の家に行っ てみると、そこに、家も何も無く・・・ただの空き地でありました。
 そこで、土地の人から、ここに狐が住んでいて、ときどき、男を引きずり込んでだますのだと聞き・・・・ 鄭六は、始めて、任氏が狐であった事を知るのでした。
 しかし、鄭六は、ずっと、任氏の事が忘れられずにおりました。

 それから、10日ばかりたった日、 鄭六は、市場で、任氏の姿を見かけます。
 捕まえようとする鄭六の手を振り切って、任氏は逃げようとするのですが・・・・鄭六は、「あなたが、狐でも、何でもかまわない!私は、貴女の事が忘れら れないのだ!」と心を込めて求愛をしました。  その心に打たれた任氏は、鄭六の求愛を受け入れ、そして、それからは、鄭六のためにつくすようになるのです。

 お話は、その後、鄭六に病気の馬を買わせて、金儲けをさせたり、韋崟(いぎん)に、むりやり犯されそうになりながら、鄭六のために操(みさお)を守り、 それから後は、任氏も韋崟と親友になったりと、いろいろと事件が起るのですが・・・・そこのところは、少し、飛ばしましょう・・・。

 鄭六は、任氏のおかげで出世し、武官に任命され、金城県(きんじょうけん)に出張する事になりました。  「そちらの方向には、悪い卦(け)が出ている」と行きたがらない任氏を無理矢理に説得し、鄭六は、任氏を伴って、金城県に向かうのですが・・・・その途 中、馬嵬(ばかい)までさしかかった時です。  草むらから、お狩り場の役人が訓練をしていた猟犬が飛び出して来たのです。  任氏は、びっくりして、馬から転げ落ち、そのまま、本性のキツネの姿に戻って走り出しました。  鄭六は、任氏の名を呼びながら、あわてて追いかけましたが、鄭六が追いついた時には、任氏は、すでに、猟犬によって、ズタズタに引き裂かれた後でした。  後には、馬と、まるで、セミの抜け殻のような服と・・・地面には、頸環(くびわ)が転がって残されているだけでした。

 その後、 鄭六は、総監使(そうかんし)となり、家は富み、65歳で亡くなりました。

 作者である沈既済は、この話を鄭六の親友であった韋崟から聞いたと記されています。

 読んでいただいて、わかると思いますが、小説のなかの任氏 と楊貴妃には、年代が同じである事、絶世の美女である事、馬嵬で亡くなる事、死体がない事など、幾つかの共通点があります。任氏伝が楊貴妃をモデルとして いる事は、間違いないでしょう。
 この任氏伝から、楊貴妃には、死んだと言われてまもない頃から、狐のイメージがまとわりついていたことがうかがわれます。

参考
沈既済について
 沈(しん)は蘇州(そしゅう)呉(ご)の出身、子息(しそく)の伝師(でんし) が代宗(だいそう)の大暦(たいれき)4年(769)に生まれており、そ こから類推(るいすい)すると、玄宗の天宝(てんぽう)年間(或いはそれより少し前)に生まれ、大暦(たいれき)末から徳宗(とくそう)の貞元(じょうげ ん)年間にかけて中晩年期を過ごしたと考えられる。
(中略)
 安史の乱を含む唐王朝の激動期に生きたのである。徳宗期の宰相(さいしょう)、両税法(りょう ぜいほう)施行(しこう)で知られる楊炎(ようえん)の推挙により、左拾圏遣(さじゅうけんけん)、史官(しかん)修撰(しゅうせん)に任命された。史官 としては、開元年間に編(あ)まれた呉競(ごきょう)等撰(せん)『則天実録(そくてんじつろく)』三十巻に対して、武后(ぶこう)を皇帝と看做(みな) して本紀を立てたことを批判する上奏文(じょうそうぶん)(『全唐文』巻四七六)などが残っている。だが徳宗の健中(けんちゅう)2年(781)6月、楊 炎は政敵盧杞(ろき)の讒言(ざんげん)によって失脚し、十月には崖州(がいしゅう)(広東省(かんとんしょう)瓊山県(けいざんけん))司馬(しば)に 左遷(させん)され、その途次(とじ)(道すがら)、縊殺(いさつ)された(『資治通鑑』巻二二七)。
 沈既済も連座して、処州(しょしゅう)(浙江省 (せっこうしょう)麗水県(れいすいけん))司戸参軍(しとさんぐん)に左遷される。
 この失意の船旅の中で、「任氏伝」が記された。

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