●孝謙上皇に仕えた楊貴妃
楊貴妃が、吉備真備の妹として、孝謙(こうけん)上皇(高野(たかの)天皇)に仕えるようになったのが、何時(いつ)の頃なのかわかりません。
しかし、その時、孝謙は、実権を淳仁(じゅんにん)天皇にゆずり、上皇になっていました。
孝謙上皇は、自分が天皇として在位にあった時に、楊貴妃が、野馬臺詩(やまたいし)を送ってきた事を覚えていたでしょう、あの時には、孝謙天皇は、楊貴
妃の事を信じませんでした。
しかし、小野田守(おのたもり)が、唐の情報を持ち帰った事で、楊貴妃が野馬臺詩(やまたいし)を通して、高野天皇に伝えた言葉が、真実であった事がわ
かりました。
孝謙上皇は、半信半疑(はんしんはんぎ)ながら、楊貴妃が自分に仕える事を認めたでしょう。
●吉備由利の誕生
楊貴妃が昇殿するにあたり、孝謙上皇は、できるかぎり、楊貴妃を優遇したでしょう。
しかし、もちろん、元の身分は隠しての昇殿ですから、孝謙上皇としても、楊貴妃に対して、吉備真備の妹としての計らいしか出来なかったと思います。
吉備由利の名前は、その美しさを百合(ゆり)に例(たと)えて、昇殿(しょうでん)の時に、孝謙上皇(こうけんじょうこう)から与えられたものではないでしょうか?妹とされる由利が、吉備朝臣(きびあそん)の名前を勝手に名乗る事は、許されなかったはずです。
吉備真備(きびのまきび)は元の名を、下道真備(しも
みちのまきび)と言います。
吉備真備が吉備朝臣(あそん)の姓を与えられたのは天平(てんぴょう)18年(746)の10月19日です。息子である泉(いずみ)
はともかく、真備の兄弟であった乙吉備(おときび)、真事(まごと)、広(ひろ)に吉備朝臣(あそん)の名前が与えられたのは、真備が吉備真備になってか
ら、2年後の天平20年(748)の11月23日の事でした。
吉備由利が、妹ではなく、娘だとする説があるのも、続日本紀の中に、吉備由利に吉備朝臣(あそん)の名前が与えられた記録がない事が大きな理由となっています。
●美貌を誇っていた孝謙上皇
孝謙上皇(高野天皇) と楊貴妃は、 正確には、孝謙上皇が一つ年上ですが・・・ ほぼ、同年齢です。
いろいろと男関係の妙な噂が絶えなかった孝謙上皇ですが、寺沢龍氏の著書「飛鳥古京・藤原京・平城京の謎 草思社」は、あのミケランジェロのダビテ像に
も比べられる・・・興福寺(こうふくじ)の阿修羅像(あしゅらぞう)のモデルを、この製作時に16歳だった阿部内親王(あべないしんのう)・・・・すなわち若い時
の高野天皇(たかのてんのう)がつとめたのではないか?としています。
もし、そうであったなら、 孝謙上皇(高野天皇) も、楊貴妃ほどではないとしても、若い時は、相当、魅力的な女性であったはずです。
年齢も、立場も、境遇も良く似た・・・この二人は、きっと、うまがあった事でしょう。
●恵美押勝の朝鮮半島脅威論
孝謙上皇は、その立ち振る舞いや気品、その美しさから、吉備由利が、本当に楊貴妃である事を認めるようになっていったでしょう。そして、それと同時に、
自分に間違った判断をさせた恵美押勝に、少しずつ不信感をいだくようになっていきました。
あるいは、それは、楊貴妃・・・・吉備由利の戦略であったかもしれません。
恵美押勝は、唐の動乱に乗じて、新羅(しらぎ)侵略の準備にとりかかっています。・・・政治屋は、内政に行き詰まると、仮想敵国を作り、国民に危機をあ
おりたてます。そして、とにかく威勢のいい事を言うと・・・・馬鹿な国民の支持が増えます・・・。それは、今も変わらない政治の姿なのかもしれません。
すでに、天平宝字3年(759)6月18日には、新羅を討つために大宰府に行軍式(こうぐんしき)を作らせています。さらに、同年8月6日大宰帥(だざ
いのそつ)の船王(ふねのおう)を香椎廟(かしいびょう)に出向かせ新羅を伐つ事を奏上(そうじょう)させています。9月19日には、諸国に船500隻を
作らせるように指令を出しています。天平宝字4年(760)11月10日には、軍司令官(ぐんしれいかん)候補である授刀舎人(たちはきのとねり)の春日
部(かすかべの)三関(みせき)・中衛舎人(ちゅうのえとねり)の土師(はじ)宿禰(すくね)関成(せきなり)ら6人を大宰府に遣(つか)わして、大宰大
弐(だざいのだいに)の吉備真備から、諸葛(しょかつ)亮(りょう)の「八陳(はっちん)」(軍隊の八つの形式)・孫子(そんし)の九地(くち)(九種類
の土地の形による戦術)・および軍営の作り方を習わせました。天平宝字5年(761)正月9日には、新羅(しらぎ)討伐(とうばつ)の準備として、美濃
(みの)・武蔵(むさし)2国の少年それぞれ30人に新羅語を習わせ、同年11月17日には、新羅征討(せいとう)のための軍容(ぐんよう)を固め、その
中で、吉備真備を西海道節度使(さいかいどうせつどし)に任じています。
●恵美押勝と戦う決意をした吉備由利
・・・・しかし、吉備由利(きびのゆり)にとって、この恵美押勝の行動は、赦(ゆる)せない感情をいだかせたでしょう。
・・・・せっかく、唐の大乱(たいらん)を生命からがら逃げて来たのに・・・せっかく、日本を戦乱に巻き込まれないように守ろうとしたのに・・・・・逆
に、恵美押勝(えみのおしかつ)は、大伴古麻呂達の生命を奪い・・・・それの反省もせず、さらに、新羅出兵まで行なって、戦乱を広げようとしてい
る・・・・・そして、それは、自分を助けてくれた 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の想(おも)いも踏(ふ)にじる行為でした・・・・。そして、吉備真備
は、真備自身の思いとは関係なく、侵略(しんりゃく)の手伝いをさせられていました。
●愛玩人形であった楊貴妃
楊貴妃は、傾国(けいこく)の・・・
国を動かす力を持つ美女です。美しいだけではなく聡明な女性であったと伝わっています。
・・・・しかし、唐の国にあった時には、楊貴妃は、ただの意志をもたない美しい人形にすぎませんでした。
今までは、まわりが、勝手に、動いただけの話で・・・・自分から、この傾国の能力を使いたいと思う事はあり
ませんでした・・・。
その理由は、楊貴妃の・・・自分の出生に関わるコンプレックスにあったでしょう。
楊貴妃は孤児であったと伝わっています。これは、旧唐書に、「妃早孤(妃、早くして孤児となる)」、新唐書には、「幼孤(幼くして孤児)」とありますから、間違いありません。
楊貴妃は、自分の親戚・・・楊家のものを優遇し、出世させ、官僚にした事で世間から非難される向きがありますが・・・これで楊貴妃を責めるのは酷という
ものです・・・想像するに、楊貴妃は、最初から楊家によって育てられ、楊家のために作られた・・・言わば、生身のラブドールであったでしょう。寿王李瑁(りぼ
う)との
結婚も離婚も・・・玄宗との再婚も・・・・安史の乱から生き残ったことさえ、楊貴妃は・・・自分の意志とは無関係に、他人から命じられるままに、自分の運命を
甘受してきました。
しかし、今、楊貴妃は、生まれて始めて、自分の意思で、自分から積極的(せっきょくてき)に、政治に介入しようとしていました。
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