龍神楊貴妃伝

小野田守の帰還(無視され続けた小野田守の報告)

●小野田守、突如、帰還す

  一方、日本でも、楊貴妃の運命を左右する情報が、小野田守(おののたもり)によってもたらされていました。

 天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)9月18日、遣渤海使(けんぼっかいし)小野田守(おののたもり)が、突如として日本に帰還(きかん)し たのです。しかも、小野田守は渤海(ぼっかい)から、渤海大使(ぼっかいたいし)で輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)兼(けん)将軍行木(ぎょうもく) 底州(ていしゅう)の勅使(ちょくし)の揚承慶(ようしょうけい)以下23人の渤海人を連れてきていました。

 小野田守は、2月10日に藤原仲麻呂・・・・いや、これからは恵美押勝(えみのおしかつ)と呼ぶ事にしましょう・・・・の屋敷で饗応(きょうおう)を受けていますから、 小野田守が、遣渤に旅立ったのは、それから後の出来事だった事は、間違いありません。

 それから、考えると・・・・小野田守の渤海(ぼっかい)滞在は、わずか半年あまり・・・・まさにトンボ返りで、小野田守は、日本に帰国してきた事になります。

 それは、異常事態と呼ぶべき出来事であったでしょう。

●小野田守の報告発表を遅らせ続けた恵美押勝

 小野田守は、まず、いの一番に、自分のスポンサーである恵美押勝に、自分が渤海(ぼっかい)で探(さぐ)った情報を伝えた事でしょう。そして、その情報は、恵美押勝の期待したものではなく、大伴古麻呂達が主張してきた情報の確かさを裏付けるものでした。

 恵美押勝は、小野田守と大使達を、都や外交上の出入り口である大宰府(だざいふ)から遠く離れた越前国(えちぜんのくに)に留(と)め置きます。
 そして、9月28日、越前国に飛駅(ひえき)の鈴を与え、越前と都との間に急使便(きゅうしびん)を作っています。(同時に、越中(えっちゅう)、佐渡 (さど)、出雲(いずも)、石見(いわみ)、伊予(いよ)にも飛駅の鈴を与えていますが・・・・これは言わば、口実でしょう・・・・当面の目的は、越前と 都との間に急使便を置くことだったと思います。)

 おそらく、恵美押勝と小野田守は、何度も書簡(しょかん)を取り交わし、何を、どのように発表するか対応を協議したことでしょう。

 結局、小野田守が朝廷で唐の国の状況を奏上(そうじょう)するのは、その年の終わり・・・12月10日になっての事でした。
 実に、小野田守が、日本に帰還してから、3ヶ月も経過しての事です。

 せっかく、緊急事態だ!とおおあわてで渤海から戻って来たというのに!渤海大使も連れて来たというのに!・・・・小野田守は、おそらく、イライラとしながら、この時を待っていたでしょう。

 記録をみる限り、この間、政府は、国外対策(こくがいたいさく)を何も講(こう)じていません。

 おそらく、恵美押勝は、小野田守に調べてきた唐の情勢(じょうせい)を公表させたくはなかったのでしょう。 だから・・・そのまま、ずるずると越前国 (えちぜんのくに)に停留(ていりゅう)させていた・・・・しかし、それをいつまでも続かせる事は、いくら恵美押勝の力でも出来ませんでした。
 重大で、緊急事態であれば、あるほど、発表を遅らせ・・・・対策をとらない・・・・・それは、今も続く、日本の政治屋の伝統なのかもしれません。

●小野田守の安史の乱の報告

 朝廷に報告した小野田守の言葉を、長いですが・・・続日本紀(講談社学術文庫)宇治谷孟訳からそのまま抜粋(ばっすい)します。

 『天宝(てんぽう)14歳(さい)(天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年)乙未(きのとひつじ)の年の11月9日、御史大夫(ぎょしたいふ)兼(けん)范陽節度史(はんようせつどし)の安禄山(あんろくざん)が謀反(むほん)を起こしました。
 挙兵(きょへい)して反乱をなし、自ら大燕(だいえん)聖武(しょうむ)皇帝と称し、范陽(はんよう)を霊武(れいぶ)郡と改め、その邸宅を潜竜(せん りゅう)宮と名づけ、年号を聖武(しょうむ)と制定しました。その子の安卿緒(あんけいしょ)を范陽郡に駐留させて知范陽郡事(ちはんようぐんじ)とし、 自身は精兵20余万騎を率いて南行し、12月にはもう洛陽(らくよう)の都に入り、新政府の百官を設置しました。天子(玄宗皇帝)は安西節度史(あんせい せつどし)の哥舒翰(かじょかん)を派遣し、30万の軍勢を率いて潼津関(どうつかん)を守備させました。また大将軍の封常清(ほうじょうせい)には15 万の軍勢をつけて、禄山(ろくざん)の支配する洛陽を包囲させました。
  天宝15歳には、禄山は将軍の孫(そん)孝哲(こうてつ)らを遣(つか)わし、2万騎を率いて潼津関(どうつかん)を攻撃させました。哥舒翰(かじょか ん)は潼津の岸壁(がんぺき)を破壊して黄河に落とし、孝哲(こうてつ)らの通路を遮断(しゃだん)し、引き返しました。孝哲は山塊(さんかい)を開削 (かいさく)して通路を開き、兵を率いて新豊(しんほう)に到着しました。
 6月6日、天子は剣南(けんなん)の地(蜀(しょく))に難を避けました。
 7月6日、皇太子の與(よ)が霊武郡(れいぶぐん)の都督府(ととくふ)で帝位につき(粛宗(しゅくそう))、改元して至徳元載(しとくげんさい)としました。
 21日、天子(粛宗(しゅくそう))が益州(えきしゅう)に至った時、平盧(へいろ)の留後事(るごじ)(留守官(るすかん))の徐帰道(じょきどう) は果殻都尉行柳城県兼四府経略判官(かきといこうりゅうじょうけんけんしふけいりゃくはんがん)の張元澗(ちょうげんかん)を使者として渤海を訪問させ、 援軍の兵馬(へいば)を徴発(ちょうはつ)させて、「今年10月、安禄山(あんろくざん)を攻撃するから、渤海王(ぼっかいおう)は騎兵4万を徴発し、援 軍となって賊徒(ぞくと)を平定されたい」といいました。しかし渤海では徐帰道(じょきどう)に謀反(むほん)の心があるのではないかと疑い、しばらく使 者を抑留(よくりゅう)したまま帰国させませんでした。
 12月22日、果(はた)して徐帰道は劉正臣(りゅうせいしん)を北平(ほくへい)で毒殺し、ひそかに安禄山に内通しました。続いて幽州(ゆうしゅう) (范陽(はんよう))節度史(せつどし)の史思明(ししめい)が謀反を起こし、天子を攻撃しようとしました。安東都護(あんとうとご)の王玄志(おうげん し)はその謀反を知るや、精兵(せいへい)6千余人を率いて柳城(りゅうじょう)を打ち破り、徐帰道を惨殺して自ら権知平盧節度(ごんちへいらろせつど) と称し、進軍して北平(ほくへい)を鎮定(ちんてい)しました。
 至徳(しとく)3歳(さい)(天平宝字(てんぴょうほうじ)2年)4月、王玄志(おうげん し)は将軍の王進義(おうしんぎ)を使者として渤海を訪問させ、国交を通じさせようとして、「天子は西京(さいきょう)(長安(ちょうあん))に帰還し、 太上天皇(だいじょうてんのう)(玄宗)を蜀(しょく)の成都(せいと)より迎えて別宮におらせ、いよいよ賊徒(ぞくと)を討伐(とうばつ)しようとされ ている。そこで臣下の私を派遣(はけん)して、渤海王(ぼっかいおう)の下にきて命令を告げさせているのです」と述べました。渤海王は進義(しんぎ)の奏 上に信を置きがたいとして、これを抑留(よくりゅう)したまま、使者を唐土に派遣(はけん)して詳細(しょうさい)を尋ねさせています。しかしその使者が まだ帰ってこないため、事情は知ることができません。』

 さすがに、小野田守は、外交官として優れた能力を持っていたと感じさせます。
 御覧いただいた通り、小野田守の報告は、きわめて詳しく、事細かなものでした。

●なぜか・・楊貴妃情報のない小野田守の報告

 ただ、少し情報が錯綜(さくそう)しているようです。例えば、この時、安禄山は、すでに息子の安卿緒(あんけいしょ)によって惨殺(ざんさつ)されているのですが、それは小野田守の報告の中には、ありません。

 しかし、私が一番気になるのは、やはり楊貴妃の事に関する情報が全くないことです。

 情報として、重視(じゅうし)されず、報告がなかったのでしょうか?・・・・それとも、意図的(いとてき)に報告から削られたのでしょうか?あるいは、報告されたけれど・・・続日本紀には記載(きさい)されていないのでしょうか?

 皆さんは、どう判断されますか?

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

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