龍神楊貴妃伝

怨霊(桓武天皇が怖れた怨霊の正体)

●なぜ続日本紀に野狐の記録が書かれているのか?

 続日本紀を読んでいると、吉備由利(きびのゆり)の亡くなる前後、何度か野狐(のぎつね)の事が書き込まれています。

 宝亀(ほうき)3年(772)6月20日、野狐が出てきて、大安寺(だいあんじ)の講堂の甍(いらか)の上にうずくまっていた。
 宝亀6年(775)5月13日、 野狐が出てきて、大納言・藤原(ふじはらの)朝臣(あそん)魚名(うおな)の朝堂院(ちょうどういん)内の座席にいすわった。
 宝亀(ほうき)6年(775)8月7日、 野狐があらわれて内裏(だいり)の門にうずくまった。

 現代のふだんの生活で、キツネをみかけることはめったにありません。しかし、そんなに珍しいものでもないと思います。
 私は、一時期、半年ほど、新聞配達(しんぶんはいたつ)のアルバイトをしていて、夜中に、車で、三重県の県庁所在地である津(つ)の街中を走り回ってい たことがあります。その時、何度かキツネを見かけました。
 おもいもかけず住宅地の真ん中でも見かけましたので、あっ・・・こんなところにまでキツネが暮らしているんだなと、ちょっと、ビックリしたものです。
 おそらく、都(みやこ)とはいえ、当時の平城京(へいじょうきょう)であれば、野狐(のぎつね)など、めずらしくはなかったでしょう。
 目撃(もくげき)などあたりまえすぎて、記載(きさい)される理由などなかったはずです。
 しかし、こんな風に記録されている・・・・記述された背景(はいけい)には、当時の人々が、これらのキツネの出現に何らかの霊威(れいい)を見て、怯 (おび)えたことがあるのではないかと思います。
 私は、これらのキツネに、当時の人々は、吉備由利(きびのゆり)の姿を見ていたのではないかと想像します。
 吉備由利は、死んでおらず、本来のキツネの姿にもどって、井上(いがみ)内親王らの無実を訴えているのだ・・・・そんな風に考えたのではないでしょう か?

●都を相次いで襲った天変地異

 都には、天変地異や不幸が相次いでいました。
御霊神社
五條に23 あると言われる 御霊神社 の本社。
井上内親王の霊を鎮めるために作られたと言われる。
(稲荷社が併設されているのにも注目)


 水鏡(みずかがみ)には、次のような事が記されています。
 『同七年九月に、二十日ばかり夜毎(よごと)に瓦、石、塊(つちくれ)降りき、つとめて見しかば、屋(や)の上にふり積(つも)れりき。同八年冬雨も降 らずして、世の中の井の水みな絶(た)えて、宇治川の水既(すで)に絶(た)えなんとする事侍(はべ)りき。十二月に百川が夢に、甲冑(かっちゅう)を着 たる者百餘人(ひゃくよにん)來(きた)りて、我を求むとたびたび見えき。又帝(みかど)、東宮(とうぐう)の御夢(おんゆめ)にも、かやうに見えさせ給 (たま)ひて、悩(なや)ましく思されき。』

 水鏡(みずかがみ)で創作されたデタラメのように感じるかもしれませんが・・・・同じような話は、正史(せいし)である「続日本紀」にも掲載(けいさ い)されています。
 宝亀(ほうき)7年(776)9月26日「この月毎夜(まいよ)、瓦や石や土塊(つちくれ)が内竪(ないじゅ)の庁舎や京中のあちこちの屋根の上に自然 に落ちてきた。翌朝見てみると、落ちて来たものは現実に存在していた。二十日余り経(た)って止(や)んだ。」
 宝亀(ほうき)8年(777)12月28日「この冬は雨が降らなくて、井戸の水が涸(か)れ、出水川(いずみがわ)(泉川・今の木津川(きづがわ))も 宇治川(うじがわ)も徒歩(とほ)で渡れるようになった。」

 瓦(かわら)や石や土塊(つちくれ)が降ったというのは、人為的なものであったかもしれません。先に、恵美押勝の乱で紹介した「投石機」のようなものを を使えば、このような事は可能だったでしょう。

●怖れられた井上内親王の怨霊

 ともかく、これらの出来事は、井上(いがみ)内親王の祟(たた)りだとされました。実際、井上内親王の祟りを怖れたことは確かで、この同じ12月28日 「井上内親王の遺骸(いがい)を改装した。その塚を「御墓(みはか)」と称して墓守(はかもり)一戸を置いた。」とあります。

●果たして、人々が怖れたのは井上内親王の怨霊か?

 しかし、怖れたのは、本当に井上内親王の怨霊(おんりょう)だけでしょうか?その裏に、語る事の出来ない・・もっと、巨大で恐るべき怨霊の存在を、百川 (ももかわ)達は見ていたのではないでしょうか?
井上内親王陵
井上内親王陵
佗戸親王陵
佗戸親王陵


注釈・参考
大安寺
天平(てんぴょう)19年(747年)の「大安寺資材帳(だいあんじしざいちょう)」によると、同年現在、大安寺には887名の僧が居住していた。奈良時 代の大安寺には、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、唐に16年間滞在した留学僧・道慈(どうじ)など、帰化僧・留学僧を含む著名な僧が在籍していた。

藤原魚名
神護景雲(じんごけいうん)4年(770年)8月に称徳天皇(しょうとくてんのう)が崩御すると、魚名(うおな)は藤原永手(ふじはらのながて)・藤原宿 奈麻呂(ふじはらのすくなまろ)(のち良継(よしつぐ))・藤原百川(ふじわらのももかわ)らとともに、天智天皇の孫・白壁王(しらかべのおう)(のち光 仁天皇(こうにんてんのう))を皇嗣(こうし)に擁立(ようりつ)、道鏡を排除する。同年10月の光仁天皇即位に伴い正三位(しょうさんみ)に叙せられ、 翌宝亀2年(771年)には左大臣・永手(ながて)が薨(こう)じたことや、称徳朝(しょうとくちょう)からの実力者であった右大臣・吉備真備の致仕(ち し)を受けて、参議から一挙に大納言に昇進する等、光仁天皇を擁立した功臣(こうしん)として急速に頭角を現す。

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