龍神楊貴妃伝

楊貴妃の死の謎(楊貴妃生存の可能性)

 楊貴妃を殺したと言われている高力士ですが、本当は楊貴妃を愛していたのではな いかという噂が 古くから、あります。

 「玄宗遺録」には、高力士が楊貴妃の韈(べつ)(布製の靴下のような足袋)を形見として隠し持っていた話が書かれています。「注『玄宗遺録』は現存しな いが、王楙(1151〜1213年)の書いた『野客叢書』・卷22に引用がある。詳しくは「馬嵬改葬」で後述する。」
 どうも、高力士は、宦官ではなく、男として楊貴妃を見ていたらしい・・・。
             
 以前にも述べたように、高力士は、宦官とは思えないたくましい肉体を持っていました。高力士は、少年時代、金剛という少年と共に、則天武后に捧げられた 宦官であったと伝わっています。女帝である則天武后はおそらく、中性的な宦官を望まなかったでしょう・・・・ ひょっとすると、高力士は、他の宦官とは違 う特殊な去勢を施されていたのかもしれません。

 そして、もしそうだとしたら、高力士は、男性の欲望を持ちながら女性を抱く能力を持たなかったわけで・・・その苦しみは、とても、深いものであったで しょう。

 玄宗に楊貴妃を抱かせたのも、それは、高力士の欲望であったかもしれません。

 玄宗が、高力士を自分の分身と言っていたように、高力士にとっても、玄宗は自分の分身であったでしょう。高力士は、玄宗の身体を通して、楊貴妃を抱いて いたのではないか?・・・私は、そう思います。

 そして、あるいは、玄宗もまた、そのことに、気づいていたでしょう。

 そんな高力士が楊貴妃の死罪に賛同するのは、玄宗にとって大変なショックであり、絶望であったでしょう。だから、あきらめて、楊貴妃に死を命じざるおえ なかった・・・。

 しかし・・・本当に、高力士は楊貴妃を殺したのでしょうか?前段にも述べたように、高力士は、仏堂に楊貴妃を引き入れ、そこで締め殺しました。殺すとこ ろは、誰も見ていません。

 高力士には、楊貴妃を助ける理由も、そして、チャンスもあった・・・。それなのに、それを利用しなかったのでしょうか?

 もし助ける気なら、玄宗に楊貴妃の死を要求するわけがないだろう!そういう風に言う人もいるでしょう。
 私は、こう思います。
 考えてみてください・・・高力士は、確実に、安禄山の軍隊が、自分たちを追いかけてくると信じていたでしょう。それなのに、兵士たちは言う事を聞かず、 行軍は遅々として進まない・・・自分達が生き残る公算は非常に低いと考えていたでしょう。

 兵士達の暴動がなかったとしても、楊貴妃の命は、風前の灯火でした。

 ・・・・ならば、兵士達の暴動を利用すれば、愛する楊貴妃だけでも、逃す事が出来るのではないか?
 高力士は、そう考えたのではないでしょうか?

 陳玄礼に兵士達の意向を聞きに行ったのは、高力士です。
 陳玄礼が楊貴妃の処刑を言い出した時点で、すでに、高力士と陳玄礼との間には、密約が出来ていたかもしれません。
 高力士は、楊貴妃を外傷のない縊殺という方法をとりました。高力士は、兵士達の前で陳玄礼に遺体の確認をさせましたが・・・おそらく、兵士達には、高貴 な楊貴妃の遺体に触れる事は出来なかったでしょう。触って死を確認したのは、陳玄礼だけだったはずです。

 楊貴妃の遺体は、紫の褥(しとね)にくるまれて、埋められました。
 人々は、楊貴妃の遺体が埋められたのを見たわけではありません。実際には、褥(しとね)が埋められるのを見たのです。この埋められた褥(しとね)の中 に、楊貴妃は入っていたでしょうか?
 もちろん、これは、私の推測です。しかし、楊貴妃の死には、謎がある・・・・・。

 馬嵬に楊貴妃が埋められてから、1年半後、玄宗は長安に帰り、周囲の反対を押し切って、楊貴妃の改葬を命じました。

 幾つかの文献にその時の話があります。
 墓を掘り起こすと、遺体を紫の褥(しとね)にくるんで埋めたはずなのに、その身体は、すでになくなり朽ち果てていて、ただ、香をいれた袋だけが、残って いたと言われています。

 楊貴妃生存は、替え玉説や蘇生説など、他にも、いろいろな説があります。


(旧唐書)

「上皇密令中使改葬于他所。初瘗时以紫褥裹之,肌肤已坏,而香囊仍在。内官以献,上皇视之凄惋,乃令图其形于别殿,朝夕视之。」
舊唐書 列傳第1: 后妃上 巻51 http://zh.wikisource.org/wiki/ 舊唐書/卷51
「上皇、密カニ中使ヲシテ他所ニ改葬セシム。初メ瘞(うず)メシ時、紫ノ褥(しとね)ヲ以テ之ヲ裹(つつ)ミタルモ、肌膚スデニ壊 レ、香囊(こうのう)ノ ミ乃オ在リ。内官以テ献ズ。上皇之ヲ視テ凄惋(せいわん)タリ。乃(すなわ)チソノ形ヲ別殿ニ図セシメ朝夕之ヲ視ル。」筆者注 凄惋=嘆き悲しむこと
 
訳文 村山吉廣著「楊貴妃」中公新書より
(新唐書)

「密遣中使者具棺槨它葬焉。啓瘞、故香囊猶在、中人以献、帝視之、悽感流涕、命工貌妃於別殿、朝夕往、必為鯁欷。」
新唐書 列傳第一 后妃上 卷076 http://zh.wikisource.org/wiki/ 新唐書/卷076
「密かに中使者を遣わし葬った所に棺槨(ひつぎ)を具(そな)えさせた。瘞(うず)めた所には、ただ、香囊のみがあっただけだったので、中人は、是をもって(帝に)献じた。帝は之を視て、凄まじく涙を流し、別殿に妃の容貌を描かせ、朝夕そこに行くと、必ずすすり泣いた。」
「故香囊猶在」=「香囊(こうのう)ノミ猶(な)オ在ル故(ゆえ)」とだけあり、貴妃の遺骸は見なかったようにある。裸にして埋め た わ けでもないだろう に、衣服や装飾品は、どこにいったのだろう?
(筆者)

旧唐書
中国五代十国時代の後晋(しん)出帝の時に劉昫(りゅうく)、張昭遠(ちょうしょうえん)、王伸(おうしん)らによって編纂された 歴 史書。二十四史の一 つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
          

新唐書
『新唐書(しんとうじょ)』は、中国の唐代の正史である。五代の後晋(しん)の劉昫(りゅうく)の手になる『旧唐書(くとう じょ)』 と区別するために、 『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書(とうじょ)』と呼ぶこともある。  北宋(そう)の欧陽脩(おうようしゅう)らの奉勅撰(ほうちょくせん)、225巻、仁宗(じんそう)の嘉祐(かゆう)6年(1060年)の成立である。
                
ウィキペディア  http: //ja.wikipedia.org/wiki/新唐書

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版