龍神楊貴妃伝

玉藻前の伝説

 皆さんは、「九尾の狐・玉藻前」のお話をご存知ですか?

●鳥羽上皇に取り付いた九尾の狐

 平安時代の末期・・・・鳥羽上皇の御代の事です。
 見たら、恋い焦がれて死ぬという噂が出る程の美女がいました。名前を「玉藻前(たまものまえ)」といいます。鳥羽上皇は、これを聞きつけ、側女としたの ですが・・・・それいらい、どうも、上皇の様子がおかしい・・・。
 顔色は、青白く、眼は虚ろ・・・行動は落ち着き無く、臣下の言葉も聞き入れない・・・。

 これは、いかなる事かと、心配した家臣達は、陰陽師(おんみょうじ)の安倍泰成(やすなり)(安倍泰親(やすちか)、安倍光栄(みつよし)・・・安倍晴 明(せいめい)と言われる場合もあります)に依頼し占わせます。

 占った安倍泰成は、この原因は、鳥羽上皇に狐が取り付いているのだと説明します。
「天竺(てんじく)では、班足王(はんぞくおう)の后となり、中国では、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の后、妲己(だっき)と名乗り、また、周の幽王 (ゆうおう)の后、褒姒(ほうじ)と名乗り、ことごとく王を惑わし、国を滅ぼした白面金毛、九尾の狐!・・・今、日本に来て、名を偽り、玉藻と名乗る!」

 聞いていた臣下達は、青ざめ、安倍泰成に調伏を願いました。
玉藻前と安倍安近
歌川国芳画「安倍安近祈玉藻前」
江戸の劇画・妖怪浮世絵 中右 瑛著
里文出版より


 安倍泰成が、晴明ゆかりの泰山府君(たいざんふくん)の法を行うと、その威力に、玉藻は苦しみもだえ、ついにその正体を表して、天空に飛び去っていきま した。

 九尾の狐は、その後、東北の地に現れ、帝は、弓の名手の上総介広常(かずさのすけひろつね)、三浦介義純(みうらのすけよしずみ)に討伐を命じます。2 人は、犬追物で騎馬を訓練し、そして、首尾よく、狐を那須野原(なすのがはら)に追いつめ、矢を射かけますが・・・・狐は、その直後、石に変じ、近付く生 き物を全て殺したと言います。

 その後、石は、玄翁和尚(げんのうおしょう)の霊力で、その力を弱めますが・・・今も、那須野に「殺生石(せっしょうせき)」として立っていて、小さな 生き物なら、まだ、殺す力があると言われています。(実際は、その近くが火山地帯で、硫化水素や亜硫酸ガスの毒ガスが噴出しているためらしい)

 ・・・・だいたい、こんな話です。むろん、実話ではありません。

 しかし、「玉藻前」は、鳥羽上皇の寵愛を受け、保元・平治の乱を引き起こした美福門院得 子(びふくもんいんなりこ)がモデルと言われています。

 それから、九尾の狐に例えられる中国の殷(いん)の妲己(だっき)は、「酒池肉林(しゅちにくりん)」の語源になった驕慢(きょうまん)な生活と、「炮 烙(ほうろく)の刑」と呼ばれる残酷な刑を笑って楽しんだと伝えられます。また、褒姒(ほうじ)は、普段、けっしてわらわず、あるとき、手違いで、兵を集 める為の烽火(のろし)があがり、城下に兵が集まったのを見て、始めて、ことことと笑ったと言います。その笑顔の美しさから、それを見たいがために幽王 は、ことあるごとに烽火を上げ、次第に兵が集まらなくなり、滅ぼされたと伝えられています。

 インドの班足王(はんぞくおう)の夫人、華陽夫人(かようふじん)については、モデルになる人物が見あたりません。班足王は、インドの伝説上の王で、そ れを元にして、物語の戯作者によって作られたものと思われます。(班足王の話については、「皇族達の熊野参詣の始まり」で、もう一度後に触れます。)

 玉藻前、妲己の話、褒姒の話、それぞれ、お話が面白いので、興味がある方は、調べてみてください。

●吉備真備が連れてきた九尾の狐

 九尾の狐、玉藻前のお話には、前日譚があります。

 玉藻前は、「若藻」という一五、六歳の美少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、日本に渡ってきた事になっています。

 なぜ、九尾の狐は、吉備真備の乗った船にのって日本にやってきたのでしょう?
 玉藻前のお話をみれば、九尾の狐は、天空を飛べるのです。なぜ、わざわざ、船に乗る必要があったのでしょうか?

 もし、船に乗る必要があったとしても、吉備真備の船に乗って来たというのは、不自然です。

 吉備真備(696~775)は、玉藻前の暴れた鳥羽上皇(1103~1156)の時代よりも、約350年も昔の時代の人間なのです・・・・その350年間、九尾の狐は何をしていたというのでしょ う?
 
 だいたい・・・・玉藻前の暴れた平安末期には・・・表向きは、ともかく・・・・私貿易では、宋との間で行き来していた船があったのです。
参考 ウィキペ ディア 日宋貿易 http: //ja.wikipedia.org/wiki/日宋貿易

 その日宋貿易の交易船にまぎれてやって来たというお話にした方が・・・自然だったのではないでしょうか?

 それが、なぜ、吉備真備の乗る遣唐使船でなければならなかったのでしょう?

 私には、この物語には、きわめて作為的な点があると感じます。


 九尾の狐は、傾国の美女に化けると言われます。そして、傾国の美女と言えば、私は、楊貴妃を連想します。
しかし、玉藻前の伝説に見てきたように、楊貴妃は「九尾の狐」とは言われていません。なぜ、物語は、九尾の狐の前身として楊貴妃をあげないのでしょうか?


 「開元の御代(玄宗皇帝の時代)」でも述べましたが、楊貴妃と吉備真備は、同一時代の人物で、知り合いでした。吉備真備が連れてきたというなら、まず、九尾の狐として、 楊貴妃 が、最もふさわしいと思います。

 それが、なぜ、若藻という少女なのでしょう?
 楊貴妃は、狐だとか・・・あるいは、褒姒(ほうじ)や妲己(だっき)のようには言われていなかったのでしょうか?
参考
絵本三国妖婦伝 高井蘭山 (1804)

順風に帆を揚げ洋溟(うなばら)はるかに漕ぎ出しけるが二日二夜ほど過ぎて後吉備大臣の御座船に二八ばかりの美女黙然として端座せりこれを見ておどろき吉 備公婦人にむかひ汝いかなるものなれば断りもなく乗船せし何ものなるやと問れければ 女こたへて 妾は玄宗皇帝の臣に司馬元脩と云るものの娘にて若藻とい ふものに君かねて唐にあらせ玉ふ節より成長までもましまして帰朝なし玉はば日本に具し玉らんことを願ひ奉らんと年来心にかけたれども父母にかくし妾が心ひ とつにして願ひ奉るとも中々取りあげゆるさせ給ふこと有まじと出帆の以前密かに打ち乗り両日御船の底に忍びかくれ在りしがもはや沖遙かに出船ましませば時 節よしと立ち出で候也あはれゆるさせ玉ひて日本の地までつれさせ玉へもし許容ましまさずんばいかにせん海底に身を没して空しく鯨鯢の餌となるへしと涕泣し てねがひける吉備公いぶかしくも又悦び玉すといへども帰朝の海路大海漫々たる波濤に漂ひならひたる船の追風にはしるにのぞんでいなといはば少女を没死せし めんも不便さ心ざはりせんかたなく側近くまねきよせ誠に女の智恵にこうさまで思ひつめての願ひはやくも斯くといはば船底にて艱難もすましきものを日本へは 何れの国を心ざすや乗せ至らんとはいと安し去りながら父母の国をはなれ嘸かし心うく思ふらん次の間に在って心ままに起き臥しすべしと宣へばかの少女はさも 嬉し気なる体にて禮拝して悦びぬつづく日和の追風に十分に帆をあげ船路しずかに走りつつ程なく筑前の国博多の津に着船し駅館にやどり給ふ少女もともに船よ り上がりしが駅館までもしたがひ至らずいづくへ行けん跡方も見へずなりけるにぞ吉備公あやしみ給ひ是まで召し具し来(きたり)てもし異変もありては便なし と爰かしこ尋ねさせ玉へども更に見へざれば不思議ながらももとめて具されしものにもあらず棄て置かれて唐土の送りの船を返し筑前よりは其地に船の用意あり て凪を待ちて帝都をさして出帆し玉ふかの船中にあらはれてなきねがひてともなはれし女こそ殷を亡ぼし天竺耶竭国を傾けんとしそれより周を危ふしたりし金毛 九尾白面の狐褒姒の生みし伯服に精るをつたへ婦人となつて吉備公を偽り倭へわたりし方便なりと後にぞ思ひ合わされけりかくて吉備公は元正帝の養老五年より 聖武帝天平七年まで唐に滞留あること十五ケ年玄肪は霊亀二年に入唐二十ケ年にして恙なく帰朝あり
現代文
 順風に帆を揚げて、海原はるかに漕ぎ出したのでしたが、二日二夜ほど過ぎた後の事です。
 吉備大臣の乗る御船に、二八(28歳ではなく・・・ニハチで、16歳)ばかりの美少女が黙然として座っていました。
 これを見ておどろいた吉 備公は、女性にむかい、「貴女は、どうして断りもなく乗船されたのですか?いったい何ものなのです?」と問いました。
 女は答えて「私は、玄宗皇帝の家臣の司馬元脩と云うものの娘で、若藻というものです。
 貴君が、かねて唐にいらっしゃる時分から、成長するのを待っ て、貴君が帰朝される時には、日本に一緒に伴っていただくことを、お願いしようと、年来ずっと心に思っておりましたけれども、父母に隠して・・・私が、一 心にお願いしたところで、中々取りあげて、お許しいただく事は出来ないだろうと、出帆の以前に、密かに船に乗り込んで、2日 程、御船の底に忍び隠れておりました。もはや、船は、沖を遙かに出ましたので、もう良い頃合いだろうと、姿を現しました。
 あわれと思い、許していただい て、どうか、日本の地までつれて行ってください。もし、許していただかなければ、どうしようもありません。海の底に身を没めて、空しく鯨鯢の餌となりま しょう。」と泣きながら願いました。
 吉備公は、いぶかしくは思ったのですが・・・又、ありがたいことに、帰朝の海路は、大海に漫々たる波 濤の中で、漂いならないのが普通なのですが、船は追風に走っていましたので、ダメだと云って、少女を水没させ死なせてしまうのも、不便(ふびん)で、心障りがしてしか たがなく、 側(そば)近くに招き寄せて、「本当に、女の智恵で、こうまで思いつめての願い・・・はやく伺っていましたならば、船底で難渋をすることはなかったでしょう に・・・日本へは、どちらのお国に行きたいとおもっていられるのでしょうか?・・・・乗せていくことは、たいへん容易いことです。しかしながら、父母の国 をはな れ、さぞかし心細く思っていらっしゃることでしょう。ここは、次の間に移って、心のままに寝起きされたらいかがでしょう。」と言うと、その少女は、とても 嬉しそうに、禮拝して悦びました。
 その後も、よい天気が続き、追風に十分に帆をあげて、船路は静かに走り、何事もなく筑前(九州)の国、博多の津(港)に着船し、駅館に宿泊しようと、少 女も共に船よ り上がったのですが、駅館までもしたがう事なく・・・どこかで行ってしまい跡方も見せず消えてしまったので、吉備公は、怪しみながらも、是まで召して、一 緒に来たものを、もし異変などがあったのだとしたら、気の毒な事だ と・・・あちこちと尋ねさせたのですけれども、やっぱり、どこにも姿が見えませんので、不思議に思いながらも、こちらからもとめて一緒に伴って来たもので もありませんので、棄て置かれて、唐土の送りの船を返し・・・・筑前(九州)からは、その地に船の用意もありましたので凪を待って帝都をさして出帆しまし た。
 この船中に現れて、泣き願って伴われた女こそ、殷を亡ぼし・・・天竺耶竭(マカダ)国を傾けようとし、それから、周の国を危うくした金毛 九尾白面の狐でありました。
 褒姒の生んだ伯服に、その精を伝え・・・婦人となつて吉備公をだましたのは、倭(日本)へ渡るための方便であったと、後になってから思い合 わされた事でありました。
 こうして吉備公は元正帝の養老五年から 聖武帝の天平七年まで、十五ケ年、唐に滞留しました。
 玄肪は霊亀二年に入唐し、二十ケ年の後に、恙(つつが)なく帰朝しました。
解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

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