現代文
順風に帆を揚げて、海原はるかに漕ぎ出したのでしたが、二日二夜ほど過ぎた後の事です。
吉備大臣の乗る御船に、二八(28歳ではなく・・・ニハチで、16歳)ばかりの美少女が黙然として座っていました。
これを見ておどろいた吉
備公は、女性にむかい、「貴女は、どうして断りもなく乗船されたのですか?いったい何ものなのです?」と問いました。
女は答えて「私は、玄宗皇帝の家臣の司馬元脩と云うものの娘で、若藻というものです。
貴君が、かねて唐にいらっしゃる時分から、成長するのを待っ
て、貴君が帰朝される時には、日本に一緒に伴っていただくことを、お願いしようと、年来ずっと心に思っておりましたけれども、父母に隠して・・・私が、一
心にお願いしたところで、中々取りあげて、お許しいただく事は出来ないだろうと、出帆の以前に、密かに船に乗り込んで、2日
程、御船の底に忍び隠れておりました。もはや、船は、沖を遙かに出ましたので、もう良い頃合いだろうと、姿を現しました。
あわれと思い、許していただい
て、どうか、日本の地までつれて行ってください。もし、許していただかなければ、どうしようもありません。海の底に身を没めて、空しく鯨鯢の餌となりま
しょう。」と泣きながら願いました。
吉備公は、いぶかしくは思ったのですが・・・又、ありがたいことに、帰朝の海路は、大海に漫々たる波
濤の中で、漂いならないのが普通なのですが、船は追風に走っていましたので、ダメだと云って、少女を水没させ死なせてしまうのも、不便(ふびん)で、心障りがしてしか
たがなく、
側(そば)近くに招き寄せて、「本当に、女の智恵で、こうまで思いつめての願い・・・はやく伺っていましたならば、船底で難渋をすることはなかったでしょう
に・・・日本へは、どちらのお国に行きたいとおもっていられるのでしょうか?・・・・乗せていくことは、たいへん容易いことです。しかしながら、父母の国
をはな
れ、さぞかし心細く思っていらっしゃることでしょう。ここは、次の間に移って、心のままに寝起きされたらいかがでしょう。」と言うと、その少女は、とても
嬉しそうに、禮拝して悦びました。
その後も、よい天気が続き、追風に十分に帆をあげて、船路は静かに走り、何事もなく筑前(九州)の国、博多の津(港)に着船し、駅館に宿泊しようと、少
女も共に船よ
り上がったのですが、駅館までもしたがう事なく・・・どこかで行ってしまい跡方も見せず消えてしまったので、吉備公は、怪しみながらも、是まで召して、一
緒に来たものを、もし異変などがあったのだとしたら、気の毒な事だ
と・・・あちこちと尋ねさせたのですけれども、やっぱり、どこにも姿が見えませんので、不思議に思いながらも、こちらからもとめて一緒に伴って来たもので
もありませんので、棄て置かれて、唐土の送りの船を返し・・・・筑前(九州)からは、その地に船の用意もありましたので凪を待って帝都をさして出帆しまし
た。
この船中に現れて、泣き願って伴われた女こそ、殷を亡ぼし・・・天竺耶竭(マカダ)国を傾けようとし、それから、周の国を危うくした金毛
九尾白面の狐でありました。
褒姒の生んだ伯服に、その精を伝え・・・婦人となつて吉備公をだましたのは、倭(日本)へ渡るための方便であったと、後になってから思い合
わされた事でありました。
こうして吉備公は元正帝の養老五年から
聖武帝の天平七年まで、十五ケ年、唐に滞留しました。
玄肪は霊亀二年に入唐し、二十ケ年の後に、恙(つつが)なく帰朝しました。
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