龍神楊貴妃伝

楊貴妃の誕生(息子の嫁を簒奪した玄宗皇帝)

  楊貴妃は、妃になる前の名を楊玉環(ようぎょくかん)といい、始め玄宗の息子である寿王李瑁(りぼう)の妻でした。李瑁の母は武恵妃(ぶけいひ)と言い、 玄宗皇帝の一番のお気に入りで、玄宗皇帝は、彼女を、皇帝としての正式な妻の座である皇后にしようとしていたといいます。

 しかし、武恵妃が、則天武后と同じ、武の一族であった事から、周囲の反対にあい、恵妃という本来の唐の妃の称号にはない特別な妃として、据わっていまし た。ちなみに・・・楊貴妃の貴妃も皇帝の妻の位の称号で、皇后の次の座を表します。
 もちろん、武恵妃の宮中での発言力は、絶対でしたから、その頃、皇太子に決まっていた李瑛(りえい)を廃嫡にし、息子である李瑁を皇太子に擁立しようと したのです。
 そのままいけば、李瑁は、皇太子に・・・楊玉環は、皇太子妃になっていたでしょう・・・。
しかし、事はそうなりませんでした。

 武恵妃が、突如、病で死んだのです。玄宗は、嘆き悲しみ、同時に、彼女に正式に皇后の称号を贈りました。
 しかし・・・皇太子の座は、武恵妃の望み通りではなく、忠王李與(りよ)(後の李亨(りこう))がその座につきます。
 この李與を推挙したのが、宦官(かんがん)である高力士(こうりきし)という男でした。
 宦官というと、男性機能を強制的に奪われた人間の事です。男性機能を失う事で、宮廷内に深く入り込み、高位になれば皇帝の側近を勤めます。
 高力士は、分身と言われる程、玄宗皇帝の信頼を得ていました。
 おそらく、皆さんは、中性的な弱々しい男性を想像するかもしれません。しかし、玄宗は、高力士に驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の称号を与え、いつも 「将軍」と呼んでいたといいます。おそらく、たくましい頑強な肉体を持つ人間であったでしょう。

 皇太子妃の夢を断たれた楊玉環は、きっと、高力士に文句を言いに行ったにちがいありません。そして、高力士は、自分にくってかかるこの小娘に、なんと好 意をいだき、武恵妃を失って気を落とす玄宗の妻にしようと計画したのです。

 高力士の思惑はおもいどおりにすすみ、楊玉環は、李瑁(りぼう)と離婚させられ・・・玄宗の妻として宮中に入る事になります。
 こうして、楊貴妃は誕生しました。
 
解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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