●高野天皇の恵美押勝への決別宣言 天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)、5月23日、淳仁(じゅんにん)天皇と仲違(なかたが)いをした孝謙上皇(こうけんじょうこう)(高野天皇(たかのてんのう))は、保良宮(ほらのみや)から平城京(へいじょうきょう)へと戻ります。
6月3日、官人達を朝堂(ちょうどう)に集め、孝謙上皇は宣言(せんげん)します。
その内容は、一つは、孝謙上皇が出家して仏弟子となったこと・・・・。もう一つは、政事(せいじ)のうち恒例の祭祀(さいし)など小さな事の決定は、今
の天皇(淳仁)が行なうが、国家の大事と賞罰の二つの大本(おおもと)は、自分(孝謙)が行なうという・・・事実上の孝謙の天皇職務への復帰と淳仁・恵美
押勝路線からの決別(けつべつ)宣言でした。
いったん、引退(いんたい)した天皇が、今の天皇のやり方が気に入らないからと、自分が政務(せいむ)を執(と)るなどと言い出すのは、いかにも無茶(むちゃ)な言い分です。普通なら、こんな理屈(りくつ)は通らないでしょう。
しかし、それを通すだけの実力と、周りの後押しが、孝謙上皇にはあったようです。そして、きっと、その時局(じきょく)を見計らっての孝謙上皇の宣言だったに違いありません。
●恵美押勝政権の求心力の低下
藤原清河(ふじわらのきよかわ)を向えに行った高元度(こうげんど)が唐の国から帰り・・・高元度は藤原清河を連れて帰る事は出来ませんでしたが、唐の国の戦乱の新しい情報を抱えて帰ってきていました。
その情報は、橘奈良麻呂や大伴古麻呂たちの言い分が正しかった事を、ますます印象付けていたでしょう。
結果として恵美押勝への反発は強まっていました。
この年の終わり頃・・・・天然痘(てんねんとう)で死亡した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の息子である藤原良継(ふじはらのよしつぐ)は、橘奈良麻呂事
件の処理に反発を覚えていた大伴氏や佐伯氏の実力者である大伴家持(おおとものやかもち)や佐伯(さえきの)今毛人(いまえみし)、石上宅嗣(いそのかみ
のやかつぐ)などを誘い、恵美押勝(えみのおしかつ)暗殺計画をたてたとされています。
暗殺計画は、
天平宝字(てんぴょうほうじ)7年(763)に発覚し、4人は捕らえられますが、藤原良継(ふじはらのよしつぐ)が全て罪をかぶる事によって、3人は許さ
れたとされています。(ただ、3人とも左遷(させん)されたり、解官(げかん)されたりしていますし、私は、藤原良継が一人で罪をかぶったというのは、
ちょっと、信じられません。続日本紀は、宇合(うまかい)の子孫である式家(しきけ)が政権のトップにあった時代に作られたものですので、その辺りは割り
引いて考える必要があるのではないかと思います。)
●佐伯今毛人の渡唐計画
少し話が横道にそれますが、ここで、事件に関係した佐伯(さえき)今毛人(いまえみし)のその後について触れておきます。
佐伯今毛人は、この事件で、解官(げかん)となり九州に飛ばされますが、恵美押勝の乱の後、復職(ふくしょく)します。そして、現在の物語の主人公である吉備由利(きびのゆり)の亡くなった翌年の宝亀(ほうき)6年(775)に遣唐大使(けんとうたいし)に選ばれます。
この時、佐伯今毛人は56歳です。正四位下、左大弁(さだいべん)、造東大寺(ぞうとうだいじ)長官、 造西大寺(ぞうさいだいじ)長官など、数々の重職を歴任しています。
今さら、命がけで遣唐使として、唐の国に渡る必要があったのでしょうか?
しかし、私は、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が遣唐大使に選ばれたのには、佐伯今毛人自身の意思もあったのではないか?と思います。
佐伯今毛人には、佐伯全成(さえきのまたなり)が生命を落とした橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)と楊貴妃事件の真相を、唐の国に確かめに行きたいという想いもあったのではないでしょうか?
●渡唐しなかった佐伯今毛人
しかし、佐伯今毛人が唐の国に渡る事はありませんでした。宝亀(ほうき)7年(776)、4月15日、遣唐大使(けんとうたいし)の印である節刀(せっ
とう)を受け取り、佐伯今毛人は渡唐のため、大宰府に行き、渡唐の準備をしますが順風を得られず、11月15日、帰京し、節刀を返上します。次の年の宝亀
8年(777)、4月17日、再び、暇(いとま)乞(ご)いをして、なんとか任地へ向かおうとしますが、羅生門(らしょうもん)まで来たところで、体調の
悪化を理由に出発を断念します。4月22日に、輿(こし)に乗って出発しますが、摂津(せっつ)職(しき)まで来た時、さらに体調が悪化し、そこでついに渡唐を断念しました。
結局、遣唐副使の小野石根(おののいわね)が、大使を代行して、唐に出発します・・・・しかし、唐からの帰り、小野石根の乗る船は、暴風雨のため、真っ
二つに裂け、小野石根と唐の大使の趙宝英(ちょうほうえい)は、ともども、海の藻(も)くずと消えました。しかし、船は、舳(へさき)と艢(とも)の真っ
二つに別れたまま、漂流(ひょうりゅう)し、艢(とも)は甑嶋郡(こしきしまぐん)に・・・舳(へさき)は、肥後(ひご)の天草郡(あまくさぐん)に漂着
(ひょうちゃく)しました。
●漂着した清河の娘「喜娘」
余談中の、さらに余談ですが・・・・その船には、唐の国にとどまったままであった藤原(ふじわらの)清河(きよかわ)の娘の喜娘(きじょう)が乗っていて、舳(へさき)に乗って、天草(あまくさ)に上陸したと伝えられています。
●佐伯氏の人材育成に貢献した佐伯今毛人
「水鏡(みずかがみ)」には、その後、佐伯今毛人が宰相(さいしょう)にまでのぼった事が書かれています・・・が、それを宇合(うまかい)の孫である藤原種継(ふじわらのたねつぐ)に、「佐伯氏が、いまだ、そのような地位に選ばれた例はない!」と邪魔(じゃま)をされ、取り下げになったと書かれています。(佐伯氏は、大和王朝の捕虜(ほりょ)となった蝦夷(えみし)の一族とされています。佐伯今毛人(さえきのいまえみし)の毛人も蝦夷(えみし)の意味で、佐伯今毛人は、今蝦夷と言われる事もありました。)
佐伯今毛人が、朝廷の中で、どれだけ信頼され、認められていたかを感じさせる話です。
佐伯今毛人は、佐伯院(さえきいん)という私寺(しじ)を建造し、そこに、地方から集めた佐伯の子弟を集め、宿泊させ、人材の育成に貢献しました。
そして、その中に、後に空海となる15歳の真魚(まお)がいました。
佐伯今毛人は、この真魚の才能を認め、自分が果たせなかった唐への渡海と楊貴妃事件の真相をさぐる夢を、少年に託(たく)したのではないでしょうか?
注釈・参考
これを、仮病(けびょう)であり、佐伯今毛人が、臆病風(おくびょうかぜ)に吹かれ、渡唐をサボ
タージュしたのだという意見もあります。しかし、続日本紀の11月15日の記事には、「遣唐大使(けんとうたいし)の佐伯(さえきの)宿禰(すくね)今毛
人(いまえみし)が待機中の大宰府から帰って節刀(せっとう)を返上した。副使の大伴(おおともの)宿禰(すくね)益立(ますたて)・判官(はんがん)の
海上(うなかみの)真人(まひと)三狩(みかり)らは大宰府に留まって入唐の期を待つことにした。世間の人々はこの態度をよしとした。」とあります。この
「世間の人々はこの態度をよしとした。」は、大宰府に留まった大伴益立・海上三狩の態度だとする見方も出来ますが・・・それから、すぐ後の12月14日に
大伴益立は、遣唐副使を解任されています。したがって、「この態度をよしとした。」は、佐伯今毛人の事と捉えてよいのではないでしょうか。また、佐伯今毛
人は、この後も、佐伯氏の出の者としては異例の出世をとげていきます。もし、臆病風に吹かれ、渡唐をサボタージュするような男だったのだとしたら、こんな
事はありえないでしょう。・・・あるいは、佐伯今毛人が渡唐をしなかったのには、その前年に起った吉備由利(きびのゆり)の死が何か関係していたのかもし
れません。(筆者)
佐伯部(さえきべ)は古
代日本における品部(ともべ)の一つであるが、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を侵攻(しんこう)する際、捕虜(ほりょ)となった現
地人(ヤマト王権側からは「蝦夷(えみし)・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。
今毛人(いまえみし)の所属する中央佐伯氏、佐伯宿禰(さえきのすくね)は、地域の佐伯部を統括し、支配する立場であり、捕虜(ほりょ)ではないと言われ
ています。しかし、今毛人(いまえみし)は。その名前から見ても、自分たちが、日本の土着民族であり、国(こく)つ神の子孫であるという意識と誇りを強く
持っていたのではないでしょうか。(筆者)
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