龍神楊貴妃伝

野馬臺詩の波紋2(信じられなかった楊貴妃の報告)

●楊貴妃渡来情報の蚊帳の外にあった藤原仲麻呂

  おそらく、藤原仲麻呂は、このとき、楊貴妃亡命情報の聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていたはずです。藤原仲麻呂は、親唐派(しんとうは)として知られて いました。仲麻呂は「史記(しき)」や「漢書(かんしょ)」など中国書に親しみ、官職の称号(しょうごう)を唐風に改めたり、年号を年と呼ばず、載(さ い)と呼ぶようにさせるなど、唐を倣(なら)い、唐風趣味を一貫(いっかん)していました。
 それだけに、もし、玄宗皇帝から、死刑判決を受けた楊貴妃が、日本に亡命をしている事が、藤原仲麻呂の耳に入ったら、楊貴妃の生命(いのち)も、それを 匿(かくま)った吉備真備の生命(いのち)もなかったかもしれません。だからこそ、孝謙天皇も、楊貴妃の亡命の受け入れと紀伊の国への極秘移送を、藤原仲 麻呂には、内緒で行なったことでありましょう。

 天皇が自分の寝室の天井に文字を書き、群臣を集め、人々の注目を吉備真備が連れて来た美女から逸(そ)らしたのも、おそらく、一番には、藤原仲麻呂の配下の者が、その動向を追って来る事を警戒したためでしょう。

●孝謙天皇の愛人であった藤原仲麻呂

 しかし、当時、藤原仲麻呂は、孝謙天皇の愛人だったと言われています。藤原仲麻呂は、孝謙天皇より12歳年上で、孝謙天皇の従兄(いとこ)にあたりま す。藤原仲麻呂は、人当たりがよく、魅力的な風貌(ふうぼう)を持っていたようです。藤原仲麻呂は、後に恵美押勝(えみのおしかつ)と改名(かいめい)し ますが、恵美という姓の意味は、見るたびに笑(ほほえ)ましく感じるからであると、「水鏡」に書いてあります。そして、同時に藤原仲麻呂は、猜疑心(さい ぎしん)が強く、かつ、自信家で野心家の危険な男でした。女性がなぜ、こんな危ない男に惹かれ、信じるのか・・・・私にはよくわかりません。しか し・・・・それは、現代でもよくある話です。

●政権を牛耳った藤原仲麻呂

 当時の権力は、ほとんどが藤原仲麻呂に握(にぎ)られていました、
 馬嵬(ばかい)事変の起きる4ヶ月ほど前、天平勝宝8年(756)の2月2日、政治上の最高権力者の地位にある左大臣・橘諸兄が辞表を提出、受理されています。
 これは、橘諸兄の死去の時には、表沙汰にされていませんでしたが、実は、讒言(ざんげん)によって、辞職せざる負えないように、追い込まれたのだという事が 天平宝字元年(757)6月28日の続日本紀の記事からうかがう事ができます。
 さらに、その3ヶ月後の天平勝宝8年(756)の5月10日、大伴氏の重鎮(じゅうちん)である大伴古慈斐(おおとものこしび)と天智天皇(てんじてん のう)の後裔(こうえい)で、秀才として知られた淡海三船(おうみのみふね)が、朝廷を非難(ひなん)悪口(あっこう)し、臣下(しんか)の礼を失 (いっ)したと逮捕されています。(5月13日になって、2人は釈放されています。)
 これらは、全て藤原仲麻呂の策謀(さくぼう)だと言われています。こうして、藤原仲麻呂は、ライバルを排除し、反仲麻呂派を牽制(けんせい)し、着々と名実共に、権力の頂点へと昇っていました。

●伝わっていた唐の国の動乱情報

 おそらく、この頃には、すでに吉備真備から、日本の朝廷の耳に、唐の国の動乱(どうらん)の情報が流されていた事は、間違いない事だと思います。天平勝 宝8年(756年)6月22日、続日本紀には、「始めて怡土城(いとじょう)(福岡県糸島(いとしま)市前原(まえはら)町の高祖山(こうそさん)にあっ た山城)を築いた。大宰大弐(だざいのだいに)の吉備朝臣(あそん)真備を専(もっぱ)らその事に当らせた。」とあります。

 この怡土城建設が、国外からの侵略を警戒しての物であった事に違いはありません。

 しかし、玄宗の長安脱出は、6月13日、楊貴妃が、馬嵬事変に巻き込まれたのが、6月14日ですから、怡土城建設開始は、それから、10日もたっておら ず、まだ、さすがにこの時には、吉備真備も唐の国の崩壊の情報は持っていなかったでしょう。おそらく、このときの吉備真備の提言は、ただ、前年の11月に 起った安禄山の蜂起(ほうき)の情報をキャッチして、朝廷に警戒を呼びかけていたものにすぎなかったと思います。

●唐の国の動乱情報を信じなかった藤原仲麻呂

 藤原仲麻呂の耳にも、唐の国の動乱の噂は入っていたでしょう。しかし、親唐派の仲麻呂は、それを信じなかったでしょう。栄華(えいが)を誇(ほこ)る憧 れの大唐帝国が、わずかの期間の間に、瓦解するなど、仲麻呂には、思いもよらない事でした。それより、これらの情報は、親唐派の自分に対する反仲麻呂派に よる策謀だと考えた方が、現実的であると考えたことでしょう。そして、孝謙天皇にも、そう考えるように、誘導しました。

 孝謙天皇は、恩師である吉備真備よりも、愛人である 藤原仲麻呂を信じました。
結局、孝謙天皇は、楊貴妃の伝えた情報を黙殺しました。

●誰が、楊貴妃を「楊貴妃」と認めえたか?

 もし、仮に・・・孝謙天皇が楊貴妃と会っていたとしても・・・・孝謙天皇は、彼女を楊貴妃だと確認(かくにん)出来たでしょうか?
 もし、仮に、そこに阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が同行していたとしても、孝謙天皇が生まれる前には、すでに、渡唐(ととう)していた彼を信じさせる事は不可能だったでしょう。

 日本中さがしても、楊貴妃を・・・楊貴妃と認識(にんしき)出来る人間は、オソロしい事に、吉備真備以外いなかったはずです。他の人間は、楊貴妃と会っ た事もなく・・・・たとえ、帰化唐人(きかとうじん)だったとしても、長安の宮廷に仕えた事がある人間でもなければ、楊貴妃を認識出来なかったでしょ う・・・・・。

 ・・・・・いや、言いすぎました・・・。
 楊貴妃を楊貴妃と認識し・・・・楊貴妃の言葉を信じたはずの人間が、吉備真備以外に、少なくとも、もう1人いました・・・・。吉備真備と共に、遣唐副使(けんとうふくし)として唐に渡った大伴古麻呂(おおとものこまろ)です。

●直情的であった大伴古麻呂

 大伴氏は、軍事を担当する氏族だったといいます。
 大伴古麻呂は、剛勇(ごうゆう)で実直(じっちょく)、直情的(ちょくじょうてき)で義侠心(ぎきょうしん)に熱く、かつ、古風(こふう)で融通(ゆう ずう)のきかない人間であったようです。大伴古麻呂が吉備真備と一緒に遣唐使として唐にいたときの・・・エピソードが、伝わっています。

 これは、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)正月30日の続日本紀の記事に載っています。

 唐の天宝(てんぽう)12年(753)正月1日、玄宗皇帝は蓬莱宮(ほうらいきゅう)の含元殿(がんげんでん)で朝賀(ちょうが)の儀式を行い、唐の百 官の人々と諸外国の使節の代表が出席しました。このとき、大伴古麻呂は、日本の代表として朝賀の儀式に参列していたのですが・・・・古麻呂の席は、西側に 並ぶ組の第2番の吐蕃(とばん)(チベット)の下に置かれていました。一方、東側の組をみると、第1番の大食国(たいしょくこく)(ペルシャ)の上に新羅 (しらぎ)の使いの席が置かれていました。
 それを知った古麻呂は激怒しました。
 「古くから久しく新羅は、日本国に朝賀(ちょうが)している。ところが、今、新羅は東の組の上座に列(つら)なり、私(日本)は、それより下に置かれている。これは、義(ぎ)に反する!」
 古麻呂のおさまらない態度を見て、唐側は、新羅の使いを導いて、西の吐蕃の下の席に座らせ、古麻呂を東の大食国の上の席に座らせたのだそうです。

 こんな性格の大伴古麻呂が、唐の国の危機と楊貴妃の亡命の事を知り・・・・そして、日本の朝廷が、この出来事を無視する態度をとった時、どう考えたでしょう?・・・・・さぞかし古麻呂は憤慨(ふんがい)したにちがいない。

 そして、きっと彼は、義憤(ぎふん)にかられ、行動を起こそう!と考えたのではないでしょうか?


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どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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