●続日本紀に記録された吉備真備の妹
もし、私の想像するとおり、楊貴妃が、吉備真備の妹と名乗ったとしたら、そんな人物が、歴史上に存在するでしょうか?
吉備由利(きびのゆり)という女性が、文献に見えます。この後に起る「恵美押勝(えみのおしかつ)の乱」に功績(こうせき)があったらしく、天平宝字
(てんぴょうほうじ)8年(764)年9月23日に、従5位下(じゅうごいげ)から、正5位上(せいごいじょう)へと3階級特進(とくしん)した事が続日
本紀に書かれています。さらに、天平神護(てんぴょうじんご)元年(765)正月7日には、勲4等(くんよんとう)を与えられています。
その後は、昇進に昇進を重ね・・・3年後の神護景雲(じんごけいうん)2年(768)10月13日には、従3位(じゅうさんい)まで出世し、高野天皇(称徳天皇)の亡くなる前のおよそ
100日間は、ただ吉備由利のみ、高野天皇の寝所(しんじょ)に出入りする事を許され、奏上(そうじょう)を行ない、天皇に代わって勅(ちょく)を下した
とされています。
●謎に包まれた吉備由利の前半生
高野天皇から信頼(しんらい)され、高い地位に上り、大活躍(だいかつやく)した吉備由利(きびのゆり)ですが・・・・その前半生(ぜんはんせい)は、
何もわかっておりません。いつ生まれたのか・・・いつ後宮に仕えるようになったのか?・・・そして、いつ、最初の官位を与えられたのか?すべてわかりませ
ん。
吉備真備の妹と言われていますが・・・・娘という説もあって、吉備真備との関係すら不明です。
とにかく、恵美押勝の乱が起るとほとんど同時に、歴史にこつ然として、吉備由利の名前が登場しています。
もちろん、恵美押勝の乱は、馬嵬事変で、楊貴妃が姿を消した後に起きた事件です。
彼女こそ、日本人へと姿をかえた楊貴妃ではなかったでしょうか?
吉備由利が楊貴妃である・・・・という根拠が他にあるでしょうか?
●吉備由利が楊貴妃である根拠
思い出してみて下さい。
空海に三鈷(さんこ)の行方を教えた南山(なんざん)の犬飼(いぬかい)は、何と呼ばれていたでしょう?
・・・・狩場明神(かりばみょうじん)、高野明神(たかのみょうじん)・・・・そして百合野明神(ゆりのみょうじん)です。
犬飼(いぬかい)は猟師(りょうし)の格好をしていたというのですから、狩場明神(かりばみょうじん)の名前は不思議ではないでしょう。(注 丹生
(にゅう)を水銀とし、狩場明神が、それを崇拝(すうはい)する者だったという考えから、狩場(かりば)を採石場(さいせきじょう)の意味だとする意見も
あります。)また、高野明神(たかのみょうじん)の名も、南山の犬飼が高野山(こうやさん)を空海に紹介するのですから、そこから来ていると考えておかし
くないでしょう。
しかし、百合野明神(ゆりのみょうじん)というのは、奇妙です。百合野(ゆりの)とは、百合(ゆり)が生(お)い茂(しげ)っていたところで、そこに犬
飼が葬(ほうむ)られたので、百合野明神(ゆりのみょうじん)というのだ(出典 「丹生都比売(にうつひめ)神社史(じんじゃし)」丹生都比売神社(にうつひめ
じんじゃ))という話も伝わっていますが、違和感(いわかん)をぬぐえません。
それよりも、先に、犬飼は、楊貴妃の墓を祀る者であった・・・としましたが・・・・その祀っていた墓が吉備由利(きびのゆり)のものであったとしたら・・・・ 百合野明神(ゆりのみょうじん) という名前は、そこから来ているのではないでしょうか?
もう一ついきます。
私は、先に、「野馬臺詩の波紋1」の中で南山(なんざん)の犬飼と熊野(くまの)の犬飼を同じとして、「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」に書かれている話
が、楊貴妃の行跡(ぎょうせき)を表しているのではないかと書きました。そして、その中の、「初めは結玉家津美御子(ユリタマケツミミコ)と申した。二宇
(ニウ)の社であった。」という文を、キツネとして、丹生(にゅう)の社に祀られていたと読み解(と)きました。
さらに言うなら・・・・この「結(ゆり)玉(たま)家津(けつ)美御子(みみこ)」とは、・・・「由利(ゆり)霊(たま)狐(けつ)美御子(みみ
こ)」・・・・すなわち、霊狐(れいこ)として吉備由利(きびのゆり)の御霊(みたま)が祀(まつ)られた事をさすのではないか?・・・・私は、こう思う
のです。
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