龍神楊貴妃伝

密教法師弓削道鏡(孝謙上皇に愛された怪僧)

●最高位に上り詰めた恵美押勝

 天平宝字4年(760)正月4日、恵美押勝は、大師(たいし)(太政大臣(だじょうだいじん))に就任します。
 官職の最高位は、一般的には、左大臣(さだいじん)です。しかし、時として、その上の官職が与えられる事がありました。それが、太政大臣(だじょうだい じん)です。すなわち、恵美押勝は、このとき、名実共に、空前の最高位に上り詰めていました。※注 恵美押勝は唐風に太政大臣を大師と呼んでいました。

 小野田守の報告に触れ、恵美押勝に不信感をいだき始めていた 孝謙上皇(高野天皇)でしたが、恵美押勝と孝謙上皇の密月(みつつき)は、このときは続いていたものと思われます。
 ・・・おそらく、男好きのする美女であったろう高野天皇ですが、女性でありながら権力(けんりょく)の頂点に上り詰めてしまったがゆえ、結婚も出来ず、 現代の女性上級管理職にときどき見られるような・・・プライドが高く、それがゆえに愛欲(あいよく)に溺(おぼ)れ、男性への依存度(いぞんど)も高 い・・・・ちょっと、ややこしい性格になっていたかもしれません。

●密教信奉者であった楊貴妃

 吉備由利(きびのゆり)の作戦の一つは、孝謙上皇の愛欲を、別の方向に向けさせ、恵美押勝から切り離す事にありました。そのために、吉備由利が利用したのが、後に怪僧と呼ばれるようになる弓削道鏡(ゆげのどうきょう)であったでしょう。

 楊貴妃は、熱心な仏教信者であったと思われます。
 史暦(しれき)の上では、楊貴妃が、馬嵬(ばかい)で死んだとされるとき、楊貴妃は・・・死ぬ前に、「仏様(ほとけさま)をおがませてください」と仏堂に入り、そこで、高力士に絞(し)め殺されたと言われています。
 密教が、インドから中国に入ってきたのは、楊貴妃の夫である玄宗の時代でした。玄宗政権の庇護の下で、中国の密教は栄えました。そして、密教が、人間の性という問題に真っ正面から取り組んだ教義(きょうぎ)であった事は、先の空海編「理趣経(男女の愛欲を肯定する経文)」で述べました。

 吉備由利は、新しい仏教の思想である密教について、孝謙上皇に紹介したでしょう。

●密教僧であった道鏡

 道鏡は、空海の前時代の初期の密教僧として知られています。
 天平宝字(てんぴょうほうじ)5年(761)10月13日、孝謙上皇は、近江国(おうみのくに)(今の滋賀県)の保良宮(ほらのみや)に行幸(ぎょうこう)しました。この保良宮に孝謙上皇が呼び寄せたのが、この弓削道鏡でした。

 おそらく、この頃、孝謙上皇は、吉備由利(きびのゆり)の人柄に触れ、吉備由利が楊貴妃である事を実感し、恵美押勝(えみのおしかつ)に対する不信感を 増し、また、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)や大伴古麻呂(おおとものこまろ)に処断(しょだん)を下した事に、後悔を覚え始めていたかもしれません。
 孝謙上皇は、精神的に不安定になっていたでしょう。

 弓削道鏡は、孝謙上皇に密教の秘法である占星術(せんせいじゅつ)の一種の「宿曜秘法(すくようひほう)」を用いて病状を回復させ、孝謙上皇の寵幸(ちょうこう)を得たと言われています。

 さて・・・私が、一つ疑問に思うのは、いったい、 弓削道鏡は、どこから密教を学んだか?という事です。
 当時、密教は、中国でも導入されたばかりの最新式の仏教思想でした。唐の国に渡ったものでもなければ、密教を学ぶ事は不可能であったはずです。唐の国に渡ってもいない道鏡が、いったい、誰から、密教の教えを受けたのでしょう?

●道鏡は誰から密教を学んだか?

 一つ、ヒントになる事がありました。道鏡の師匠が、義淵(ぎえん)であると伝えられている事です。
 義淵(ぎえん)と言えば・・・・もうすでに何度も名前の登場している吉備真備の親友の玄ム(げんぼう)の師匠にもあたります。
 改めて書きますが、玄ムは宮子姫(みやこひめ)との姦通(かんつう)疑惑をささやかれ、左遷された上、何者かによって暗殺されました。そして、玄ムは、唐の国で密教を学び、日本に最初に持ち込んだ人間でもあります。

 つまり、玄ムは、道鏡(どうきょう)のいろいろな意味での先駆者(せんくしゃ)で兄弟子にあたります。・・・道鏡が密教を学んだのは、玄ムからだったかもしれません。
 もし、そうだとすれば・・・・道鏡と吉備真備は、知り合いであった可能性が出て来ます。
 吉備由利は、吉備真備から、道鏡の事を聞いたのではないでしょうか?

参考 
道鏡
 『七大寺年表』によれば、葛城山(かつらぎさん)に篭(こ)もって如意輪法(にょいりんほう)を修行し、また密教の宿曜秘法(すくようひほう)(一 種の占星術)を習得(しゅうとく)したという。また義淵(ぎえん)の弟子ともあり、若年の頃、晩年の義淵(ぎえん)に法相宗(ほうそうしゅう)を学んだ か。『続日本紀』没(ぼつ)伝には「梵語(ぼんご)(サンスクリット)にほぼ通暁(つうぎょう)し、禅行(ぜんぎょう)(当時は気功術(きこうじゅつ)な どを含む「超能力(ちょうのうりょく)」を指したと思われる)で有名となる」旨(むね)ある。

真言八祖(はっそ) 
金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
中インドに王子として生まれ、十歳で出家し仏教を学んだ。玄宗皇帝に国師(こくし)と仰(あお)がれ真言密教(しんごんみっきょう)の儀式(ぎしき)を伝えた。
不空(ふくう)三蔵(さんぞう)
西域に生まれるが幼少の時長安(ちょうあん)に入り、玄宗をはじめ三代の皇帝に潅頂(かんじょう)を授(さず)けたことから三代の国師(こくし)と仰(あお)がれる。
善無畏(ぜんむい)三蔵(さんぞう)
インドの王子として生まれ玄宗皇帝の深い信任(しんにん)をうけ真言密教の根本(こんぽん)経典である「大日経(だいにちきょう)」を翻訳(ほんやく)した。   
真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)徳藏院(とくぞういん) http://www.tokuzouin.com/tokuzouin/shingonhasso.html

義淵(ぎえん)
 大和(奈良県)の人。両親が観音菩薩(かんのんぼさつ)にいのってさずかった子で天智(てんじ)天皇に養育されたという伝承がある。出家して元興(がん ごう)寺の智鳳(ちほう)に法相(ほっそう)、唯識(ゆいしき)をまなび、大宝(たいほう)3年僧正(そうじょう)となる。吉野の竜門寺(りゅうもんじ) をはじめ竜蓋(りゅうがい)、竜福(りゅうふく)など五箇竜寺(ごかりゅうじ)を創建、岡連(おかのむらじ)の氏姓をあたえられた。弟子に玄ム(げんぼ う)、行基(ぎょうき)、良弁(ろうべん)、道鏡(どうきょう)らがいる。

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