龍神楊貴妃伝

遣渤海使・小野田守(小野田守は、なぜ、 遣渤海使に選ばれたのか?)

●「安史の乱」の情報を伝えたとされる小野田守

 続日本紀には、唐の「安史の乱」の情報は、天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)、遣渤海使(けんぼっかいし)の小野(おのの)田守(たもり)に よってもたらさせた事が書かれています。
 ・・・・私は、小野田守が「安史の乱」の情報をもたらしたのは、偶然(ぐうぜん)ではなく、必然(ひつぜん)であり、小野田守は、「安史の乱」の情報を 得るために、渤海(ぼっかい)に渡ったのではないか?と考えています。

●小野田守は、遣隋使「小野妹子」の子孫であった

 藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂事件で得られた「安史の乱」の情報の真偽を確かめるために、大陸に人間を送り込む必要があると考えたはずです。藤原仲麻呂に とって、小野田守は、一番、その任務を果たす為に、相応しい人物と思えたでしょう。
 小野田守の先祖は、日本書紀に記録された最初の遣唐使(けんとうし)(正確には、遣隋使(けんずいし))として名高い小野妹子(おののいもこ)です(た だし、隋書には、小野妹子の七年前、阿毎(あま)多利思比孤(たりしひこ)という大王(天皇?)が使いを送ってきたという記録があります)。小野田守は、 言わば、外 交筋のエリートでした。
 彼が、「安史の乱」の情報をもたらす5年前・・・・天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)、2月9日に、小野田守は、外交官僚の血筋に相応し く、 遣新羅大使(けんしらぎたいし)に任命されています。

●小野田守は、遣新羅使の任務を失敗し、左遷されていた。

 続日本紀には、その後、1年、小野田守についての記述はありません。次に登場するのが、 天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)、4月5日の記事で、この日、吉備真備 が大宰大弐(だざいのだいに)に任命された時・・・・小野田守は大 宰小弐(だざいのしょうに)に任命されています。
 実は、小野田守は、遣新羅大使に任命される前・・・・天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)5月1日の記事にも、大宰小弐に任命された事が書 かれています。ですから大宰小弐の任官(にんかん)というは、 遣新羅大使に任命される前の役職に戻された格好ですが、遣新羅大使としての貢献(こうけん)があったもかかわらず、大宰小弐に戻されるというのは・・・・ 吉備真備の大宰大弐の任命に左遷(させん)の意味があったたように、小野田守の大宰小弐の任命も左遷の意味があったと思えます。

 いったい、なぜ、小野田守は左遷されたのでしょう?この間、小野田守に何が起っていたのでしょうか?
 この理由が、後の天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760)9月16日の記事で明らかにされています。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年 (753)、小野田守が新羅(しらぎ)に派遣された時、新羅の国王は、小野田守の面会を赦(ゆる)さず、小野田守は使者の任務を果たせないままに帰国した のです。

●小野田守の遣新羅使失敗の原因は、大伴古麻呂にあった。

 この小野田守の遣新羅大使失敗の裏側には、実は・・・・小野田守が使節として旅立った数ヶ月前の753年の正月に起った・・・・あの大伴古麻呂(おおと ものこまろ)の唐の国での新羅の使節(しせつ)との席次問題(せきじもんだい)がありました。
 言わば、新羅側は、唐の国での雪辱(せつじょく)のため小野田守を使節として扱わないという報復措置(ほうふくそち)をとったわけです。
 すなわち、小野田守の遣新羅大使失敗と大宰小弐(だざいのしょうに)への左遷の遠因は、大伴古麻呂にあったわけで・・・・小野田守は、大伴古麻呂に対し て恨みを持っていた事でしょう。

●吉備真備と共に大宰府に送られた小野田守。

 そして、小野田守は、吉備真備の大宰大弐の任命と共に、大宰小弐に赴任(ふに ん)しているのですから、大宰府の事情にも詳しく・・・吉備真備とも繋がり を持っていたはずです。
 小野田守が、そのまま、ずっと大宰小弐の任務(にんむ)についていたなら、楊貴妃の大宰府到着と吉備真備との面会も知る事になったはずですが・・・・残 念ながら、小野田守は、楊貴妃の馬嵬事変(ばかいじへん)の起る1ヶ月ほど前、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8(756)年5月3日、山作司(やまつ くりのつかさ)(御陵(ごりょう)造り)に任じられ都に呼び戻されているので・・・・・楊貴妃来日の事情には、関与していなかったでしょう。

●小野田守に目をかけた藤原仲麻呂。

 外交筋のエリートで、大伴古麻呂など橘奈良麻呂事件の首謀者(しゅぼうしゃ)達に反抗心(はんこうしん)を持ち、かつ、大宰府と吉備真備の情報にも詳し い・・・・同時に、遣新羅大使失敗の汚名(おめい)を晴らしたいと考えている小野田守は、藤原仲麻呂にとって、とても都合のいい人物であったはずです。
 藤原仲麻呂は、小野田守に目をかけ、重用(ちょうよう)します。
 橘奈良麻呂事件のあった直後の天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)年7月12日、小野田守は、軍事を担当する刑部小輔(ぎょうぶしょうほ)に任 じられています。

 遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられたのが、いつかはよくわかりません・・・。
しかし、その影に、藤原仲麻呂の推挙(すいきょ)と強い意思があった事は間違いありません。
 天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)2月10日、藤原仲麻呂は、遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられた小野田守を自分の屋敷に招き、饗応 (きょうおう)した事が、万葉集に載っています。

「二月十日於(おいて)内相(ないそう)宅(たく)餞(せん)渤海大使(ぼっかいたいし)小野田守(おののたもり)朝臣(あそん)等(ら)宴(うたげ)歌 一首
青海原(あおうなばら)風波(かぜなみ)なびき行(ゆ)くさ来(く)さつ つむことなく船は早けむ
右一首右中辨(うちゅうべん)大伴宿祢(おおとものすくね)家持(やかも ち)
未誦之(よまず=詠まれずに終わった詩)
万葉集20巻4514 http://www.1- em.net/sampo/manyou/manyo/yM20.htm

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