龍神楊貴妃伝

称徳天皇と吉備由利2(吉備真備の昇進)

●吉備真備の栄達

 称徳政権の中で吉備真備(きびのまきび)は、地方豪族出身者としては、異例(いれい)の出世をとげる事になります。

 恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を収(おさ)めた功績(こうせき)によって、吉備真備は、正四位下から2階級特進して従三位となり、吉備由利が勲4等を 与えられた天平神護(てんぴょうじんご)元年(765)正月7日には勲(くん)2等を与えられています。そして、まもなく、参議(さんぎ)・中衛大将 (ちゅうえたいしょう)・正三位に任じられています。
 その1年後の天平神護2年(766)正月8日には、中納言(ちゅうなごん)。同じ年の3月12日には、大納言(だいなごん)・・・・10月20日には、 右大臣(うだいじん)にまで駆け昇ります。

●吉備真備の人格

 吉備真備が 大納言の時、次のような改革を行なっています。
 『二つの柱を中壬生門(なかみぶもん)(大(だい)内裏(だいり)の十二門の一)の西に建てた。その一つの柱には「宮司(ぐうじ)に圧迫されている者 は、この柱の下にきて訴え出よ」と記し、もう一つの柱には「人民の中で無実の罪を負わせられている者があれば、この柱の下にきて訴え出よ」とし、いずれも 弾正台(だんじょうだい)にその訴状(そじょう)を受けとらせた。』

 また、吉備真備が、右大臣に選任された際には、称徳天皇は、次のように述べています。
 『吉備(きびの)朝臣(あそん)真備(まきび)は、朕(ちん)が皇太子であった時より、師(し)として朕を教えさとして多くの年がたった。今は身も自由 にならないであろうと思われるのに、夜昼(よるひる)退出せずに護り仕えてくれるのを見ると、ありがたいことと思う。ところが人として恩を知らず報恩(ほ うおん)しないのは、聖人(せいじん)の御法にも禁じていらっしゃることである。それであるから吉備朝臣(あそん)に右大臣の位を授ける。』

 吉備真備が右大臣までに昇ったのは、衆目(しゅうもく)が彼の実力と人格を認めたためだった事は間違いないでしょう。
 しかし、その吉備真備の昇進に吉備由利(きびのゆり)が貢献(こうけん)した事も間違いないところだと私は思います。

●吉備由利の書いた一切経

吉備由利一切経
吉備由利一切経一部(東京国立博 物館)
 現在、東京国立博物館に、吉備由利が書いたと伝わる等目菩薩経(とうもくぼさつきょう)があります。

 この経は、吉備由利が、吉備真備の正二位・右大臣昇進を喜び、称徳天皇への報恩のために書いた一切経(いっさいきょう)の一部で、「天平神護(てんぴょ うじんご)2(766)年10月8日正四位下吉備(きびの)朝臣(あそん)由利(ゆり))と奥書(おくがき)があり、当初は西大寺(さいだいじ)の四王堂 (しおうどう)に5282巻が収められていたと伝わっています。

●輝いていた吉備由利

 この経から、吉備由利が、すぐれた美的センスと文書能力を持ち、熱心な仏教信者で、そして、自分のことよりも、吉備真備の昇進を喜び、称徳天皇を想(お も)う・・・・そういう女性だった事がわかります。

 そして、これは、楊貴妃であった時代から変わらない吉備由利の特性でした。

 吉備由利は、おそらく、この時・・・・楊貴妃であった時分よりも、もっと、充実しキラキラと輝いていたでしょう。


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