龍神楊貴妃伝

橘奈良麻呂の乱

 橘奈良麻呂は、楊貴妃の渡来の事を把握していたでしょう。
 これは、吉備真備が楊貴妃を連れてきた事を述べた「江談抄・吉備入唐の間の事」が、橘家の先祖伝来の言い伝えであったとされている事から間違いありませ ん。
 そして、その橘奈良麻呂が起こしたとされる「橘奈良麻呂の乱」が、楊貴妃事件と深く関係する出来事であった事は、そこに加わった顔ぶれが、大伴古麻呂や道 祖王 (ふなどおう)など、楊貴妃事件に関わったに違いないメンバーで構成されている事から想像されるのです。

●日本の危機対策を考えていた大伴古麻呂と橘奈良麻呂

 楊貴妃の言葉を信じた大伴古麻呂は、心安い仲間に声をかけ、日本の防衛策について、話し合おうとしたことでしょう。
 そして、その集まりの中心となったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)でした。左大臣橘諸兄は、失脚した後、「野馬臺詩の波紋2」で述べたように天平宝字(てんぴょ うほうじ)元年(757)正月6日、憔悴(しょうすい)の内に亡くなっていました。残された期待は、参議(さんぎ)であり、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂 に集まり、大伴古麻呂の呼びかけた「日本の防衛策を考える集い」は 、自然に、反藤原仲麻呂派の集団のようになった事でしょう。

●疑心暗鬼にかられていた藤原仲麻呂

 もちろん、警戒心の強い藤原仲麻呂は、こういった動きを敏感に察知し、危惧をいだいた事でしょう。
 そして、次々と、反藤原仲麻呂派を牽制(けんせい)し対策を功じます。

 天平宝字元年(757)年、5月4日、孝謙天皇は、宮廷を離れ、藤原仲麻呂の私邸である田村第に移りました。表向きは、平城宮の改修のためという事に なっていますが、本当の藤原仲麻呂の目的は、孝謙天皇を囲い込み、情報を遮断(しゃだん)して、天皇の意思を自分の思うように誘導し、操る事にあったで しょう。
 5月20日、内外の軍事を掌握(しょうあく)する紫微内相(しびないそう)という新たな官職が設けられ、藤原仲麻呂は、そこに就任します。続いて、6月 9日、次の様な布告(ふこく)が申し渡されます。

1 緒氏族の氏の上らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集めている。今後はこのようなことがあってはならない。
2 王族や臣下の所有する馬の数は、格による制限がある。この制限以上に馬を飼ってはならない。
3 令の定めによれば、所持する武器について限度のきまりがある。この規定以上に武器を備えてはならない。
4 武官を除いては、宮中で武器をもってはならない。これは以前から禁断している。しかるになおこれに違反するものがある。所司に布告して厳重に禁断(き んだん)せよ。
5 宮中を二十騎以上の集団で行動してはならない。

●懐柔政策をとっていた藤原仲麻呂

 一方で、仲麻呂は、抵抗勢力に対する巧みな懐柔策(かいじゅうさく)も行っているようです。

 6月16日、橘奈良麻呂は、右大弁(うだいべん)に・・・大伴古麻呂は、陸奥(むつ)鎮守(ちんじゅ)将軍兼任(けんにん)、陸奥按察使(あんさつし) に任官されています。
 橘奈良麻呂は、当時、軍事権を司る兵部卿(ひょうぶきょう)でした〈橘奈良麻呂が兵部卿であったいう記述は万 葉集20巻4449〜4454の歌にあります〉。一般に、橘奈良麻呂の右大弁任命は、その軍事権を奪う目的が あったとも言われています。
  また、大伴古麻呂の陸奥鎮守将軍、陸奥按察使 は、大伴古麻呂を都から遠ざけるねらいがあったのではないかと言われています。
 しかし、奈良麻呂は、先の仲麻呂の紫微内相創設と就任によってすでに軍事権 を奪われていますし、大伴古麻呂については、左大弁のままの陸奥鎮守将軍兼任ですので、2人は別に降格をされているわけでもなく、私は、これらの処置は、 仲麻呂の彼らの不満を抑えるための懐柔策ではなかったかと思います。
 その他、これから登場する・・・多くの「橘奈良麻呂事件」に関係する人々が、この頃、官位が昇進されたり、任官されたりしています。

 藤原仲麻呂は、巧妙に、飴(あめ)とムチを使い分け、抵抗勢力を抑えようとしました・・・。
 しかし、 仲麻呂は、うまく彼らを制御する事が、出来ませんでした。
 それは、全く、認識のずれというものであったでしょう。

 もし、ただ単に、橘奈良麻呂や大伴古麻呂達が自分たちの処遇(しょぐう)に対する不満から、動いていたのであれば、脅(おど)しや懐柔(かいじゅう) で、彼らを屈服(くっぷく)させる事が出来たかもしれません。
 けれど、橘奈良麻呂や大伴古麻呂達が、日本の危機を感じ、集会を持っていたのだとすれば・・・・このような脅しや懐柔で、彼らの不安や不満を抑える事 は・・・・初めから不可能だったに違いありません。

●橘奈良麻呂の逮捕

 7月2日・・・藤原仲麻呂は、突如(とつじょ)、謀反(むほん)を企んでいるとして奈良麻呂達を逮捕します。孝謙天皇の母であり、藤原仲麻呂の後ろ盾 (だて)でもあった光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が、奈良麻呂達をかばおうとしますが、仲麻呂は、追求の手を緩(ゆる)めません。
 先に少し藤原仲麻呂が唐風文化にあこがれていた事を述べました。藤原仲麻呂は独裁者としての則天武后にも興味を持ち、則天武后の行った恐怖政治や拷問を も研究していたようです。その藤原仲麻呂の行った尋問(じんもん)がどのような物であったか・・・・想像をすると恐ろしいものがあります。

●拷問の中で死んだ大伴古麻呂や道祖王

 黄文王(きぶみおう)、道祖王(ふなどおう)、大伴古麻呂(おおとものこまろ)、多治比犢養(たじひのこうしかい)、小野東人(おののあずまびと)、賀 茂角足(かものつのたり)等は、罪を認めず、拷問の中で獄死しました。続日本紀には、尋問の中で、彼らの述べた事は、言葉はそれぞれ異なっているが、内容 は、ほぼ同じであったと記されています。しかし、その内容はどのようなものであったのでしょう・・・・?

●橘奈良麻呂事件で捕まった者達の言い分はどのような物であったか?

 この記述の前に安宿王(あすかべおう)の言葉が書いてあるため、一見、安宿王の述べた内容が大伴古麻呂らのしゃべった内容と同じであるように見えます。 しかし、安宿王(あすかべおう)の供述の内容を読むと、安宿王は「自分は何も知らず、黄文王(きぶみおう)や奈良麻呂(ならまろ)にダマされて参加したの だ」と述べています。黄文王や奈良麻呂も同じ内容を述べたと書かれているのですから、当然、この記述が 皆の言葉を代表するものではありえません。・・・・ 皆が共通して述べた内容・・・・ 私の想像する・・・唐の国の崩壊(ほうかい)を知り、日本の防衛策を考え論(ろん)じていたのだという事については、続日本紀には、 わざと記述がはぶかれているのではないでしょうか?

●橘奈良麻呂には、父、諸兄の無念を晴らしたいという想いもあった

 さらに橘奈良麻呂は、また、次のように述べたと 書かれています。(注・本文には、「勅使(ちょくし)又(ま た)問(とふ)奈良麻呂(ならまろ)云(いう)。(下線部注目)」と書かれています。そこから、これが、皆が述べた内容と同じではないと判断できます。)

 「謀反(むほん)の企てはなぜ起こしたのか」と。答えて「内相(ないそう)(藤原仲麻呂)の政治は、はなはだ無道(むどう)のことが多い。それでまず兵 をあげ、天皇の許しを乞(こ)い、彼を捕らえ、それから事情を申し上げようとしたのだ」と。勅使はまた尋(たず)ねた。「政治に無道(むどう)が多いとい うのは、どういうことを指(さ)すのか」と。答えて「東大寺(とうだいじ)の造営で、人民はつらい苦しみをうけた。朝廷に仕えるもろもろの氏人(うじび と)たちも、またこれを憂慮(ゆうりょ)した。また奈羅(なら)(平城京(へいじょうきょう)と山背(やましろ)との境)に剗(せん)(せき)を置いたこ とも、すでに人民の苦労のたねになっている。」と。勅使が尋ねた。「言うところの氏人たちとは、どの氏(うじ)たちを指すのか。また東大寺を造るというこ とは汝(なんじ)の父(橘諸兄(たちばなのもろえ))の時から始まっている。いまお前は人民が苦労していると言うが、子(こ)であるお前の言葉としては不 適当ではないか」と。こう追求されて奈良麻呂は、言葉に窮(きゅう)し屈服(くっぷく)した。
続 日本紀」講談社学術文庫 宇治谷 孟氏訳から抜粋
 ※今後、特にことわりのないかぎり、「続日本紀」の現代語訳は、この宇治谷 孟氏訳から抜粋します。
 橘奈良麻呂には、日本の危機を何とかしなくてはいけないという意識の他に、讒言(ざんげん)(藤原仲麻呂の策略(さくりゃく))によって失脚し、失意の うちに死なせてしまった父、橘諸兄に対する想(おも)いもあったのかもしれません。
 この後、橘奈良麻呂がどのような運命をたどったのか?・・・・続日本紀には、何の記述もありません。
 おそらくは、他の者達と同様・・・過酷な拷問の下に、獄死したのだろう・・・・と言われています。

●追放された関係者達

 だまされて、集まりに参加しただけだと述べた安宿王(あすかべおう)とその妻子は佐渡に流されました。彼は、本当に何も聞かされていなかったのかもしれ ません。

 信濃国守の佐伯大成(さえきのおおなり)・土佐国守(とさのこくしゅ)の大伴古慈斐(おおとものこしび)は、それぞれそのまま任国(にんこく)に流され ました。
 多くの人々が獄中で死に、他の人々は流罪にされました。遠江守(とうとうみのくに)の多治比国人(たじひのくにひと)も、使いを遣(つか)わして追求す ると、答えが他の者と同じであったので、伊豆国(いずのくに)に流したと書かれています。

●自殺した佐伯全成

 陸奥守(むつのかみ)であり、陸奥鎮守副将軍(むつちんじゅふくしょうぐん)に任命されていた佐伯全成(さえきのまたなり)の言葉については、かなり詳 しい記述があります。
 この時代、佐伯氏と大伴氏は、同族だと言われていたようです。
 大伴古麻呂(おおとものこまろ)が、事件に加担しているなら佐伯全成(さえきのまたなり)が加担していないはずがないという藤原仲麻呂の思い込みもあっ たのでしょう。

 佐伯全成は、なぜ、自分が拷問を受け尋問をされているのかわからないまま・・・・思いのつく限り・・・・聖武天皇(しょうむてんのう)の崩御(ほう ぎょ)と道祖王(ふなどおう)の立太子の前後の政局の中で、次の政権を橘奈良麻呂がどのようにしたいと考えていたのかを語っています。
 ・・・・政局の中枢にあった人間は、それぞれが、その思惑を持って、次の天皇候補を考えていたはずです・・・そこを突っ込まれれば、 政局をとる事の出来なかった人間なら、おそらく、どんな人物でも、叩けば、某(なにがし)かのホコリが出た事でしょう。

 佐伯全成の語った記述は、客観的にみて、ただ、そのような事を述べたにすぎず・・・・・全く、謀反(むほん)の証拠には、ならないようなものであったと 私は思います。しかし、藤原仲麻呂にとっては、多くの人間が、無罪を主張しながら拷問の中で死んでいき、謀反の論拠がとれず焦(あせ)っている中 で・・・・論証がとれた!と嬉々(きき)として喜んだ事でしょう。

 その直後、佐伯全成(さえきのまたなり)は、おそらく、自分の言動を恥じての事でしょう・・・首を吊って自殺しました。

●藤原仲麻呂の怖れた吉備真備

 おそらく、藤原仲麻呂はこの事件に吉備真備が関わっている事も把握(はあく)していたはずで・・・もしも・・・吉備真備が、都で普通に官職についていた ら・・・このとき、吉備真備は、他の者と同じように、獄中(ごくちゅう)で殺されていたにちがいありません。
 ・・・・しかし、3年も前から、大宰大弐(だざいのだいに)として大宰府に着任している吉備真備を、謀反(むほん)に加担したとする事は、 さすがの藤原仲麻呂にも出来なかったのでしょう。
 そのかわり、8月27日、藤原仲麻呂は、関東諸国の兵士達を集めて構成され派遣(はけん)されてきた大宰府の防人(さきもり)を廃止し、代わりに西海道 七国の兵士を代わりにつけるという命令を出して太宰府の戦力を弱体化させ、吉備真備を牽制(けんせい)しています。
 同時に、10月11日、公廨稲(くげとう)の配分方法について新しい式(しき)(法)を設(もう)けて、大宰府の財力をも弱体化させようとしています。 (これが大宰府の財力の弱体化を狙ったものである事は、この次の年、天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)5月16日、公廨稲の配分方法について大 宰府から、異議の申し立てのある事で想像されます。)

●橘奈良麻呂の乱が謀反でなかった根拠

 橘奈良麻呂事件が、謀反と呼べるようなものではなく、そして、この事件の原因が、唐の国の混乱である事は、藤原仲麻呂の兄であり右大臣である藤原豊成 (ふじはらのとよなり)が事件の関係者達をかばい応援した罪で降格させられている事( 続日本紀7月12日記事)、中納言の多治比真人広足も老齢であるのにもかかわらず議論に夢中になっていたと記れていること(同8月4日記事)・・・・・ま た、多くの帰化渡来人(秦氏)が事件に関わっていた事(同8月4日 記事)から想像する事が出来ます。

 藤原仲麻呂は、事件の中で関係者達の口にしただろう「大唐帝国の崩壊(ほうかい)」という情報を信じなかった・・・・・。
 しかし、その情報の真偽の確認をしなければいけない・・・とは、考えたことでしょう。

 その中で、白羽(しらは)の矢がたったのが、小野田守(おののたもり)であったに違いありません。

参考
続日本紀 天平宝字元年(七五七)8月4日の記事の一部
原文
「今宣〈久〉。奈良麻呂〈我〉兵起〈爾〉被雇〈多利志〉秦等〈乎婆〉遠流賜〈都〉。今遺秦等者、悪心無而清明心〈乎〉持而仕奉〈止〉宣。」

「いま申しわたすに、奈良麻呂が挙兵する時に雇われた秦氏の人どもは、遠国に流してしまわれた。いま残っている秦氏の人たちは、悪心をもたず清く明るい心 をもって、これからもお仕えするように。」
続 日本紀」講談社学術文庫 宇治谷 孟氏訳

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