●謎の歴史資料「楊貴氏墓誌」
楊貴氏墓誌は、享保13年(1728)に大和国宇智郡(うちのごおり)大沢村(おおさわむら)で発見されました。
現物は、レンガか瓦のようなものに刻まれていたものということですが、今は行方不明になっていてありません。
拓本だけが残っています。
それには、とんでもない事が記されています。
●吉備真備の母は、楊貴妃!?
「楊貴氏墓誌の拓本」
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従五位上守右衛士(うえじ)府兼行中宮亮下道朝臣(あそん)真備葬亡妣楊貴氏之墓 天平十一年八月十二日記 歳次己卯
(従五位上、守右衛士府(うえじふ)、兼(けん)、中宮亮(ちゅうぐうりょう)の下道真備(しもみちのまきび)が、亡き母「楊貴氏」を葬(ほうむ)る墓
天平11年8月12日記 干支(えと) 己(つちのと)卯(う))
すなわち、発見されたのは、吉備真備の母親の墓に添えられていた墓銘誌(ぼめいし)で、「楊貴氏」が真備の母だと書かれているのです。
なんと!!・・・吉備真備は、楊貴妃の息子だったのでしょうか?
むろん、そんなわけがありません。年齢的にみて、吉備真備は、楊貴妃より25歳年上です。いわば、楊貴妃の父親のような年齢で・・・・逆は、ありえませ
ん。
あるいは、吉備真備は、 安禄山のように、 自分の方が年上でありながら、楊貴妃の養子になっていたのでしょうか?
そんな想像も、浮かんできます。
しかし、これも、天平11年・・・という墓誌に書かれた年代から、頭をひねります。
天平11年(739)には、楊貴妃は、まだ、玄宗の息子である寿王李瑁(りぼう)の妻であったと思われます。(あるいは、この頃には離婚させられていた
かもしれ
ませんが・・・。)
「楊貴妃の誕生」にも書きましたが、楊貴妃の貴妃(きひ)は、皇帝の后としての称号です。739年には、楊貴妃は、楊玉環(ようぎょくかん)と名乗って
いたはず
で・・・まだ、貴妃にはなっていなかった。 したがって、 天平11年 には、楊貴妃という名前の人物そのものが、存在しなかった事になります。
●楊貴氏は、楊貴(ヤギ)氏の意味?
そこで、楊貴氏墓誌の楊貴は、八木(やぎ)と読み、吉備真備の母親が八木(やぎ)氏であるという事を表している・・・というのが、江戸時代の考証
学者(こうしょうがくしゃ)「狩谷棭斎(かりやえきさい)」以来の有力な説になっています。
楊貴妃(ようきひ)と楊貴氏(やぎし)とは関係がない・・・・楊貴妃と楊貴氏という言葉の一致は、ただの偶然である!というのが、今の一般的な学説に
なっています。あるいは、説明がつかないので、偽書(ぎしょ)であるという意見です。
しかし、私は、これには納得できません。
●やはり、楊貴氏は、楊貴妃!
私は、今まで書いてきたとおり、楊貴妃を吉備真備が庇護(ひご)していたと考えています。
この吉備真備の母親の墓誌(ぼし)に楊貴氏と書かれている事が、ただの偶然であるとは思えません。
これについて、私は、ある見解を持っていますが・・・・この事は、又、後ほど章を改めて、「楊貴氏墓誌の謎」で述べることにしましょう。
とにかく、今は、吉備真備の母が、楊貴氏であったらしい事・・・そして、楊貴妃の墓らしきものが、大和国(やまとのくに)宇智郡(うちのごおり)
大沢村(おおさわむら)にあった・・・・という事を覚えておいてください。
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