●田辺に上陸した楊貴妃
田辺に龍神に関するとても面白い古文書が伝わっています。楊貴妃隠棲1で参考にした「龍神山とその里山」という本と、ふるさと上秋津の「古老は語るー龍神宮の由来」に
「熊野権現縁起」として物語が掲載されていて興味を持ち、その出典を捜していたのですが、どうやら、新宮田辺の宮、闘鶏神社に伝わ
る「熊野権現秘事の巻」という古文書であるようです。
熊野路編さん委員会の出している「くまの文庫2 熊野中辺路伝説(上)」に原文が写真で掲載されていました。原文を見ると、サイトなどで紹介されている
文書とは、かなり違っているようです。素人訳で申し訳ないのですが、なるべく、原文に基づいて意訳してみました。
原文
本願別当極楽寺大福院藏 くまの文庫2 熊野中辺路伝説(上)より転載
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權現宮縁起并秘事
紀州牟呂郡田邊庄權現宮御鎮座者 神代之昔海龍王山現 神光矣熟尋其 濫觴礒間浦之海中有一嶋稱加四磨北有 岩名神楽岩濱有村名神子濱村彼 神光現海龍
王山之時天女降村奏舞楽故彼村名彼名寄岩波濤自為琴鼓之妙声放彼岩名彼名龍王忽然浮海捧燈向山放彼山名彼名 龍王結草・為假金殿故名假庵山 彼神龍招請拍
掌曰此所清浄也願影向也言未終 一圓神光止テ此山可謂三元之神妙不得而測者也矣 隨神龍之所乞神光假庵山敬止天神
龍秋津野欲往而居間従海中不測之山也 釼以号龍仙 従山貝空出テ時神龍顕大己貴命尊容駕天羽車上テ虚空従彼山麓神光起雲此所雲森興天羽車共止テ龍仙
頂云 今所見宮則是也
天武天王十三甲申歳六月
◻始祭之搆十二殿奉崇 天神地祇
神祇式口傅
訳文
権現宮の縁起ならびに秘事
紀州牟呂郡(むろぐん)田辺庄(たなべのしょう)に権現宮が御鎮座(ちんざ)しています。
神代(かみよ)の昔、海龍王が山に現れ、加四磨(かしま)と称す
一島の北の海中の浦の磯からは、神光(しんこう)が、漏れ出して、辺り一面を輝かせました。そこに、岩の名を神楽岩、村名を神子浜村という浜がある村があります。
神光が現れ、海龍王が山に向かわれた時、天女が村に降り、楽器を奏し、舞ったので、村の名を神子浜と呼ぶようになりました。また、波が岩に打ち寄せる
とき、岩が自然と琴や鼓の音を放ちました。そこで神楽岩といいます。
龍王は忽然と海から浮かぶと、燈(あかり)を捧げて山に向かいました。龍王は、そこに草を結んで、假の金殿を作りました。そこで彼の山の名を假庵山
(かりほやま)といいます。
神龍が、柏手を打って、光に此の所は清浄です。影向してください。と言い終わると、一円の神光は、此の山はとどまる事は可能ですが、三元の神妙を得る
事は出来ません。もう少し検討してくださいませんかと言いました。
そこで神龍は神光を假庵山にとどめた上で、海中からは測る事の出来なかった秋津野の山に住居を求めました。この嶮山を号して龍仙(りゅうぜん)といいま
す。そ
こで山から貝空が出てきます。
この時、神龍は大己貴命(おほむなち)尊となって顕われ、天の羽車に乗って虚空の山麓に上りました。神光からは雲が起こり、(そこで此の所を雲の森といい
ます。)共に天
の羽車で龍仙の頂きに向かったと云います。今、龍仙にある宮が是だそうです。
天武天皇13年6月 干支 甲申(きのえさる)
十二殿を構えて◻始祭に奉崇する 天神地祇(天の神、地の神)
神祇式の口伝
今まで、この龍神楊貴妃伝で、ずっと追ってきたとおり、私
は、熊野権現は、楊貴妃がモデルになっていると考えています。この文書は、天武天皇13年(684)の事と書かれていますので、年代については、疑
義があるのですが、私は、この「熊野権現秘事の巻」に書かれた事が、楊貴妃の上陸の様子を記録したものではないかとみています。このお話には、多くの田
辺に
実在
する地名が登場
しますが、これが、楊
貴妃の上陸ルートではなかったでしょうか?
注 権現は、日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号です。本地垂迹思想が発達し、権現の名
が使われるようになったのは、9世紀頃とされています。ですから、私は、この「熊野権現秘事の巻」のお話は、平安時代以降に作られたものだろうと考えます。
●龍神村に向かった楊貴妃
上記の「熊野権現秘事の巻」の記述では、大己貴命(おほむなち)と神光は、龍仙山/龍神山(りゅうぜんやま)に向かったことになっています。
しかし、私は、楊貴妃上陸の行程は、さらに、龍神村まで続くと考えています。
地図に、今まで登場した「開柳の墓」や「切目辻」「龍神温泉」などを落として作成してみました。
するとこれが、龍神山からの延長上にあることがわかります。
●難陀龍王の正体
さて、「熊野権現秘事の巻」の中に登場する大己貴命(おほむなち)ですが、これは、那智の滝、そして、那智大社の第一殿滝宮に祀られる飛瀧権
現の
祭神の事です。
現在、「飛瀧権
現」「大己貴命(おほむなち)」の本地仏は「千手観音」という事になっています。
しかし、おかしな事に「千手観音」は、那智では、第四殿の「熊野夫須美(ふすみ)大神=結神(むすびかみ)」の事であるともされているのです。
上記ウィキペディアの那
智大社の祭神を参考ください。
この「結神」については、後ほど、改めて「由利霊狐御子2」の中でとりあげますので、今は、この「大己貴命(おほむなち)・飛瀧権
現」と「結神」が、その本体が同一だとされている事をしっかり覚えておいてください。
さて、中世に編纂された「熊野山略記」という書物には、飛瀧権
現について、別の正体が書かれています。
「滝宮 飛龍権現、成劫初起之時、与滝水共降来、難陀龍王化現也、慈恵僧正ハ彼神示現応作之所変也、
当山籠飛龍権現正躰可奉拝之由、祈之、即自滝底大龍出テテ登滝上、其足裏ニ銘良源、其後帰敬慈恵僧正云々、」
「熊野山略記」巻第三 那智山滝本事
すなわち、「熊野山略記」によれば、「飛瀧権
現」とは、「難陀竜王」が化現(かげん)したものだというのです。
おそらく、ここで、龍神村の住人なら「アッー!」と声をあげた事でしょう。
龍神村には、空海が「難陀龍王」の導きを受けて、「龍神温泉」を開いた・・・これ
が、龍神村の名前の云われになっているという伝説があります。
ここにおいて、「熊野権現秘事の事」に記載された田辺の神島から上陸した「海龍・大己貴命(おほむなち)」は、すなわち、龍神村の云われとなったとされ
ている「難陀龍王」であるという仮説が浮かんでくるのです。
しかし、この「難陀竜王」の正体について、もうひとつ、驚かせる話があります。
「龍神村誌下巻第3偏神祇宗教誌 第5章 仏教 第3章 龍神村の寺院 龍神山温泉寺」から、「由緒沿革」を抜粋します。
『里伝』及び『龍神という事 同湯の事』の古文書(原文注
釈)によると、
・・・・いよいよ川下へ御越(おこし)あり候。しかるところに、何くれとなくして八旬(じゅん)気(八月と思われる)成、老人一人来りて遍照(へんじょ
う)(大師)に会奉り、大師は問うて曰(いわく)、
「老人はいずくより来た」
と、御尋ねありければ答えて、龍神より来るといへり。此の地を龍神と名づけ教え成候。
此の湯はいかなる所より来たと御不審あれば、老人曰(いわく)娑婆(しゃば)世界の衆生をたすけんために、龍宮よりあがり給うと答ありけり。
大師大いによろこび給ひて、薬師如来を御仏作り給い、彼の人(老人)にお渡しあり、即ち神湯寺と名づけ給う・・・(以下略)
龍神村誌の筆者は、「稲荷大明神流記」の記述や高山
寺の由緒に、空海が弘仁7年の八月ごろに老翁と田辺で遭遇した伝文がある事をあ
げた上で、「一方、温泉寺の古文書も弘仁年間の八月ごろ遍照(へんじょう)(大師)が老人と遭遇していることは、前記のとおりである。したがって高山寺も
温泉寺も、大師にまつわる由緒は否定できないであろう。」としています。
私も、龍神温泉で空海が会ったとされる「難陀龍王」は、南山の犬飼・阿羅昆可(あらびか)と同一人物であったと考えます。
●アラビカは、空海に楊貴妃の隠れ棲んだ地として龍神村を案内した
いったい、何のために、阿羅昆可(あらびか)は、空海を龍神温泉に連れて案内して来たのでしょうか?
私に思いつく答えは、一つしかありません。
神子浜に上陸した神光・熊野権現・・・すなわち、楊貴妃の向かった先が、この龍神村であったということです。
楊貴妃は、紀氏、宮子姫親族、紀伊の吉備の郡に住む吉備一族、そして、阿羅昆可(あらびか)によって匿われ、世話を受けながら、この龍神村に隠れ棲んで
い
た。
だからこそ、阿羅昆可(あらびか)は、それを空海に伝えるために、この龍神温泉に連れて来たのだ・・・・私は、そう考えるのです。
参考
「熊野山略記」について
『熊野山略記』は熊野三山それぞれの成り立ちや祭礼の内容などを説明した縁起集成で、熊野三巻書とも呼ばれる。熊野那智大社
で、永享(えいきょう)2年
(1430)に書写した事を示す奥書のついた「熊野山略記」が見つかり、原本の成立が中世にさかのぼることが明らかとなった。
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