龍神楊貴妃伝

楊貴妃隠棲1(牟呂の国に残る楊貴妃上陸の痕跡)

●孝謙天皇の譲位と藤原仲麻呂の改名

 天平宝字2年(758)、8月1日、孝謙天皇(続日本紀の記述では高野天皇)は、皇位を皇太子(大炊王)に譲り、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が誕生 しました。昨年の3月29日に、それまで皇太子であった道祖王を廃して、まだ、1年と5ヶ月しかたっていません。
 このころ、孝謙天皇の母である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が体調を落としていたようです。先の橘奈良麻呂の事件の影響もあって、孝謙天皇は、 気が弱くなっていたのかもしれません。
 一方、橘奈良麻呂事件で全ての政敵を制圧した藤原仲麻呂にとっては・・・自分の息のかかった・・・思い通りに操れる人間を天皇につける事の出来たわけ で・・・もはや、自分の政権は、盤石(ばんじゃく)と思われたことでしょう。

 8月25日、藤原仲麻呂は、大保(たいほ)(右大臣)に就任・・・・恵美押勝(えみのおしかつ)と名を改めます。以前に恵美押勝の名の由来を見ると にっこり微笑んでしまうからだと書きましたが・・・・続日本紀には、広く恵みを施す美徳もこれに過ぎるものはなく、また、暴虐(ぼうぎゃく)の徒を鎮圧 (ちんあつ)し、強敵に勝ち、兵乱を押し鎮(しず)めたゆえに、恵美押勝と名付けたとあります。まさに、この時、恵美押勝は権力の頂点にあり、彼にかなう 存在は、誰もありませんでした。

●楊貴妃を匿っていた紀氏

紀氏勢力拠点図
瀬戸内海における紀氏関係要図
「日 本古代政治史研究」岸敏男  より
 楊貴妃は、この頃、どうしていたでしょうか?

 おそらく、この時、楊貴妃は、紀氏によって龍神村に匿われていたでしょう。
 「野馬臺詩の波紋1」で「熊野権現垂迹縁起」の記述が、楊貴妃の来日の航路を表したものだろうという考えを示しました。
 その航路は、明州、太宰府、伊予国(いよのくに)(今の愛媛県)、淡路国(あわじのくに)(今の兵庫県の淡路島)、紀伊国牟婁(むろ)郡切部山という順 番です。

 当時、紀氏は、瀬戸内海に拠点を持ち、吉備真備の生国(しょうごく)である吉備氏とも密接な関係があったと考えられます。当時の紀氏の拠点図を示します が、先にあげた航路は、まさに紀氏の拠点(きょてん)を結んだものといってもいいように思えます。

 和歌山県の中央部、残念ながら、今は、平成の大合併で有田川町(ありたがわちょう)になってしまいましたが、吉備町(きびちょう)という町がありまし た。吉備真備が生きていた奈良の時代には、紀伊の吉備の郡(こおり)と呼ばれていたところです。まさに、これは、紀氏と吉備氏との密接な繋がりを表すもの といえるでしょう。

 さらに、龍神村を流れる日高川の下流にある御坊市(ごぼうし)の清姫伝説(きよひめでんせつ)で有名な道成寺(どうじょうじ)には、宮子姫(みやこひ め)の伝説があります。聖武天皇(しょうむてんのう)の実母・・・孝謙天皇からは、祖母にあたる宮子姫ですが、御坊の海士人(あまび と)の娘であったというのです。そして、道成寺は宮子姫のために建てられたという言い伝えがあるのです。

 吉備真備は、かつて中宮亮(ちゅうぐうりょう)として宮子姫に仕え、治療(ちりょう)にあたっていました。宮子姫は、聖武天皇を産んでから、ずっと体調 を崩し、母子は引き裂かれたままでした。それが、吉備真備とその親友であった玄ム(げんぼう)の治療によって改善し、聖武天皇と会う事が出来たのですか ら、宮子姫にとって、吉備真備は、生命の恩人にも等しい存在であったでしょう。

 宮子姫は、安士の乱の起る前の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)7月19日に亡くなっているのですが、楊貴妃が龍神村の山中にいた頃に は、吉 備真備のためにならと生命を預けてくれる人々が、辺りに暮らしていたに違いありません。
 おそらく、紀氏や宮子姫親族は、日高川を遡(さかのぼ)り物資を運び、龍神村に潜む楊貴妃達の生活を支えてくれたでしょう。

高山寺石標
高山寺正門石柱
弘法大師(空海)と稲荷神の出会った所であると書かれている
 その中には、あの空海が、宇智郡(うちのごおり)で出会ったとされる若き日の犬飼の姿もあったでしょう。
 犬飼は、自分を「南山の犬飼」と名乗るのですから、大和国の人間ではありません。東寺の稲荷神伝説にあ るように、口熊野である田辺に住んでいたものと思われます。
 
 地元の伝説をあわせて考えると、その場所は、伊作田(いさいだ)村・・・・現在の稲成(いなり)町でありましょう。
 稲成町には、聖徳太子の草創(そうそう)、空海が中興(ちゅうこう)したと伝わる「高山寺(こうざんじ)」があります。
※写真を「高山寺と伊作田稲荷神社」に掲載します。
 「高山寺」は、豊臣秀吉の紀州征伐によって、残念ながら、記録類を全て消失してしまいましたが、鎌倉時代の製作と云われる「弘法大師」と「聖徳太子」の像が今も 残っています。

 高山寺には、次のような伝説が伝わっています。

「弘仁7年初夏の頃救世の大聖、弘法大師は熊野遍歴の途中田辺に来られた。その頃大師は山獄地帯を開拓して高野山に大霊場を建設中であったが、その多忙な 時日をさいて当地に見えられたのである。そして南面山の麓で図らずも異様な服装をした体格の大きな一人の老翁に会われて挨拶を交わされたが、この老翁が南 面山勧修学問寺鎮護の稲荷明神であった。」

 この老翁が、「高野山縁起2」に示した東寺の「稲荷大明神流記」に登場する「稲荷神」である事は間違いないでしょう。

 稲成町には、さらに高山寺の鎮守社であるとされる伊作田(いさいだ)稲荷(いなり)神社・・・旧名・阿羅昆可(あらびか)大明神があります。(註 社伝によれば、正親町(おおぎま ち)天皇の治世、元亀(げんき)年中(1570〜1573)に伊作田阿羅昆可(いさいだあらびか)大明神から伊作田稲荷(いさいだいなり)大明神に改められたと伝わる)
 おそらく、この阿羅昆可(あらびか)が、稲荷神の名前でしょう。

 私は、阿羅昆可(アラビカ)は、楊貴妃と共に日本に渡ってきた異国人(アラビア・・・ペルシャ人?)であったと思います。彼は、ずっと楊貴妃の側に仕 え、楊貴妃が、都に上った後は、馴染みのあるこの地で暮らす事になったのではないでしょうか?

 稲成町の裏手にそびえ立つ山が龍神山(りゅうぜんざん)です。龍神山は、もとは龍前(りゅうぜん)山と呼ばれていたようで、『田辺万代紀』寛文(かんぶ ん)元年(1661)には、「龍前と申す山」と記されています。
 龍神山は、伊作田(いさいだ)村から見て、楊貴妃の潜んだ龍神村の前にある山ですから、龍前山と呼ばれていたのではないでしょうか。

 龍神山の頂上付近には龍神宮があります。
 この龍神宮ですが、地元では、空海は、高山寺を建立するに当り、先ず龍神山に登り、この神殿を改築したと伝えられています。
 私は、阿羅昆可(あらびか)は、ここに社をつくり、楊貴妃=柳人(りゅうじん)を祀っていたのではないかと推測しています。
参考 龍神山につ いて「龍神山とその里山」 龍神山編集委員会

注釈
恵美押勝は、官職名を唐風に倣(なら)い、太政大臣(だじょうだいじん)を大師(たいし)、左大臣を大傅(たいふ)、右大臣を大保(たいほ)、大納言 を御史大夫(ぎょしたいふ)と改めた。
続日本紀、天平宝字2年8月25日の記事による
参考
龍神山、龍神宮には、天女の羽衣伝説があります。
龍神山(物語では竜仙山)にある泉で天女が水浴びをし、その畔(ほとり)の松の木にかけてあった羽衣を樵(きこり)が盗み、羽衣を盗まれた天女が、その樵 の妻となるというあらすじのありふれた羽衣伝説なのですが・・・・楊貴妃が、西王母(仙女=天女)と同一視されていた事を考えると、とても、面白い伝説だ と感じます。(熊野権現垂迹縁起に「紀伊国牟婁(むろ)郡切部山(きりべやま)の西の海の北の岸に玉那木(たまなぎ)の淵の上の松の木の本にお渡りに なった。」とあるのもあわせてお考えください。)
「竜仙山の天女」山本真理子「紀州ばなし」昭和58年10月 名著出版
※筆者は、物語を引用した『龍神山につ いて「龍神山とその里山」』 龍神山編集伊委員会を参考にしています
み熊野ネットに「竜神山の羽衣伝説」として掲載されています。
※ほぼ同じ内容の天女の物語(残念ながら松の木の部分が書いてありません)が、和歌山県日 高振興局 西牟婁振興局 東牟婁振興局の発行した「癒しの国の妖しのものがたり」に収録されています。

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龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


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龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


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