龍神楊貴妃伝

流転(なぜ、桓武天皇は遷都を行い、空海を唐に送ったか?)

●水鏡に書かれた藤原百川の死

 水鏡には、百川(ももかわ)の死について、次のように記載されています。(ここは、現代風に意訳します。)
『宝亀(ほうき)10年(779)7月5日、ある巫(みこ)が、百川(ももかわ)に、「この月の9日は、固(かた)く、物(もの)忌(い)みをされますよ うに。」と言いました。百川は、このごろ、変な夢ばかりを見ることも思い会わせて、巫(みこ)に頼(たよ)って、9日になると、戸をさしかためて、家に隠 (こも)っていました。泰隆(たいりう)という僧がいて、この僧は、いつも百川が祈りをするときに、頼んでいた僧だったのですが、その僧の夢に百川が「井 上(いがみ)の后(きさき)を殺した」と首を切るひとが出て来て、驚いて目覚め、急いで百川の元へ走っていってこの事を告げようとしたのですが、百川は巫 の教えに従って、この泰隆(たいりう)に逢いませんでした。そこで、泰隆は、不浄(ふじょう)を払うための爪弾(つまはじ)きをして帰ったのですが、この 日、百川は亡くなっていました。年齢48歳の時でした。』

●次々と謎の死をとげた藤原式家の一族

 百川をはじめ・・・藤原式家(ふじはらしきけ)では、 宝亀(ほうき)6年(775)7月1日、百川の弟で宇合(うまかい)の9男、藤原蔵下麻呂(ふじはらのくらじまろ)が・・・ 宝亀(ほうき)8年(777)9月18日、百川の兄で宇合(うまかい)の次男、藤原良継(よしつぐ)が・・・延暦(えんりゃく)3年(783)の3月19 日には、同じく百川(ももかわ)の兄で宇合(うまかい)の五男、藤原田麻呂(たまろ)が・・・次々と亡くなっています。

●長岡京への遷都を決意した桓武天皇

 延暦3年(783)、怨霊(おんりょう)を怖れた桓武天皇(かんむてんのう)(山部親王(やまべしんのう))は、遷都(せんと)を決意し、長岡京の造営(ぞうえい)をはじめます。

●殺害された長岡京の造営責任者、藤原種継

 しかし、延暦(えんりゃく)4年(784)9月23日、長岡京の造営(ぞうえい)責任者で式家(しきけ)の代表となった藤原種継(たねつぐ)(宇合(う まかい)の孫で百川の兄の清成(きよなり)の長男。佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が宰相(さいしょう)となるのを妨害したと水鏡に書かれている)が暗 殺される事件が起ります。事件には、歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)(佐伯今毛人(いまえみし)や藤原良継(ふじはらのよしつぐ)と共 に、恵美押勝(えみのおしかつ)殺害を計画した)が関与していたと伝えられています。(「橘奈良麻呂の乱」で述べたように、当時、佐伯氏と大伴氏は同族と言われていました。)

●事件の最後の生き残りとなってしまった桓武天皇

 さらに、桓武天皇の近辺では、 延暦(えんりゃく)7年(788)に婦人の藤原旅子(ふじはらのたびこ)(藤原百川の長女)が、延暦8年(789) には母である高野新笠(たかのにいがさ)が、 延暦9年(790) には皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)(藤原良継の娘)が亡くなっていきます。
 桓武天皇(かんむてんのう)は、延暦13年(794)、 せっかく作った長岡京(ながおかきょう)を捨て、さらに、帝都を平安京(へいあんきょう)へと移します。

●桓武天皇は、楊貴妃事件の真相を知りたいと橘逸勢と空海を唐の国に送り込んだ

 そして、延暦23年(804)に、桓武天皇は、橘逸勢(たちばなのはやなり)と空海(くうかい)を唐の国に送り込むのです。
 井上(いがみ)内親王事件の残された最後の重要関係者である桓武天皇の頭の中には、きっと、吉備由利の怨霊(おんりょう)を怖れ、楊貴妃事件の真相をさぐりたいという願いがあったのではないでしょうか。

●楊貴妃に憧れと怖れの感情を持っていた桓武天皇の息子達

 桓武天皇の次は、平城(へいぜい)天皇です。平城天皇は、桓武天皇の息子で、母は、 藤原良継の娘、藤原乙牟漏(おとむろ)です。
 次の嵯峨(さが)天皇は、平城天皇の同腹弟で、その次の淳和(じゅんな)天皇は、腹違いの弟で、母は、百川の娘の藤原旅子(ふじはらのたびこ)です。
 おそらく、彼らも、又、楊貴妃(ようきひ)の霊を怖れる者達であったにちがいありません。同時に、直接の事件の当事者でない彼らは、絶世の美女であった楊貴妃に対する憧れもいだいていたでしょう。
 嵯峨天皇は、楊貴妃亡命の謎を解いて帰った空海に高野山(こうやさん)を与え、さらに、都の護(まもり)として東寺(とうじ)(教王護国寺(きょうおうごこくじ))を建立させ、京都伏見稲荷(ふしみいなり)の灌頂(かんじょう)を行なわせました。

●式家の没落と共に忘れられていった楊貴妃事件

 空海と共に、楊貴妃亡命の謎を解いた橘逸勢(たちばなのはやなり)は、空海、嵯峨(さが)上皇、淳和(じゅんな)上皇が亡くなった後の842年「承和 (じょうわ)の変」に巻き込まれ、死亡します。橘逸勢が、この「承和(じょうわ)の変」に巻き込まれる事になったのも、おそらく、 楊貴妃事件が関係するものであったでしょう。
 この「承和の変」で藤原北家(ほっけ)の藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、自分の妹の順子(のぶこ)が産んだ道康(みちやす)親王(文徳(もんとく) 天皇)の擁立(ようりつ)に成功します。以来、「藤原式家」は力を失い・・・・時代は、「藤原北家」へと移っていくのです。

 楊貴妃事件の関係者達は、秘密を閉まったまま、鬼籍(きせき)に入り、「藤原式家(ふじはらしきけ)」に祟(たた)りをなした怨霊(おんりょう)の本当の正体も、「式家」の没落(ぼつらく)と共に、歴史の闇の中に忘れ去られていきました。
 そして、平安末期、大江匡房(おおえのまさふさ)による再発見まで、「楊貴妃事件」は、永い眠りにつくことになるのです。                              
終わり
参考
藤原種継(ふじわらのたねつぐ) 
737‐785(天平9‐延暦4)
奈良末期の官人。式家藤原宇合(うまかい)の孫で,父は浄(清)成,母は秦朝元の娘ともいわれる。766年(天平神護2)従五位下となり,美作,紀伊,山背の国守や近衛少将を歴任したが,とくに光仁朝末期から位階も急速に昇進し,782年(延暦1)には参議,翌年従三位式部卿兼近江按察使(あぜち),さらに784年中納言となり,ついで藤原小黒麻呂とともに遷都のために山背国乙訓(おとくに)郡長岡村の地を視察し,造長岡京使に任ぜられるなど長岡京造営の中心人物となり,遷都後の12月には正三位に叙された。
桓武天皇の信任厚く,長岡京造営の中心人物で,造営途中の長岡京で暗殺された。首謀者は事件直前に死亡した大伴家持を中心とした大伴・佐伯両氏。
コトバンク 藤原種継 https://kotobank.jp/word/藤原種継-124652/

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