南山の犬飼が持って来た舎利(遺骨)は、今、いったいどこにあるのでしょうか?
|
深草 稲荷
深草稲荷保勝会より |
●稲荷山のふもとにある泉涌寺・楊貴妃観音
あまり意識される事がないのですが、伏見稲荷のある稲荷山の麓に楊貴妃観音のある泉涌寺があります。
泉涌寺は、間違いなく、密接に、楊貴妃信仰と結びついた寺院です。
現在、「京都一周トレイル」コースとして、伏見稲荷のある稲荷山から、泉涌寺までの歩道が整備されています。
深草稲荷保勝会の出版している「深草 稲荷」という本によれば、この道が、平安京建設の時、稲荷山から木を切り出した時の車道だそうです。
すなわち、往古から、稲荷山から泉涌寺・今熊野観音寺方面へ向かっての参詣道が存在していました。
言い伝えでは、もともとは、伏見稲荷の社は山上にあり、現在の麓の社の部分には、藤森社があったといいます。
もし、このお話が正しければ、現在の参詣道ではなく、この泉涌寺から稲荷山に向かう道が本来の参詣道であったことになります。
参考
伏見稲荷の山上に社があったことは、神蹟として残っていて、これは、伏見稲荷大社も認めています。 『伏見稲荷 よくあるご質問「昔、お山の上に社があったって本当?」』
また、5月5日に行なわれる藤森神社の大祭「藤森祭」では、神輿が伏見稲荷に向かい・・・そこで、「土地返せ」と叫ぶ行事が今も、行なわれています。
ウィキペディア 藤森神社https://ja.wikipedia.org/wiki/藤森神社
●天皇の御寺である泉涌寺
泉涌寺には、後堀河天皇、四条天皇と後光厳天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり天皇家と密接に結びついたお寺
で、御寺と呼ばれています。
●泉涌寺には、熊野権現と稲荷社が祀られている
私は、この泉涌寺は、伏見稲荷と一体のものではないかと考えています。
泉涌寺は、空海の開いた真言宗のお寺ですが、その敷地内に、さらに今熊野観音寺があり、この今熊野観音寺には、二柱の社が祀られているので
す。そして、その社は、一つは、熊野権現社であり、もう一つは、稲荷社です。
この泉涌寺と今熊野観音寺から、空海の真言宗・・・そして、熊野権現と、稲荷信仰が、楊貴妃信仰で結びついている疑いが、ま
すます強くなってきませんか?
●泉涌寺は、空海と藤原式家が創った
泉涌寺の創建には幾つかの説があり、特定されていません。
泉涌寺に残る伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が創った。あるいは、空海が天長年間(824年−834年)、こ
の地に草創した法輪寺が起源で、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたのだという説もあります。この空海による草創年代を大同2
年(807年)とする伝承もあり、この空海の創った寺院は、今熊野観音寺なのだとする話もあります。
本当のところは、よくわかりませんが・・・・とにかく、泉涌寺と今熊野観音寺の創建には、空海と藤原緒嗣《※藤原百川(この楊貴妃伝の最後の方に登場す
る重要人物)の長男》が関わっていた事は間違いなさそうです。
●鎌倉幕府が再興した泉涌寺
その後、鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)に寄進し、俊芿は、多くの
人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたといいます。宇都宮信房は、源頼朝の家臣でした。
「吒枳尼天は、なぜキツネか?」に述べたように、源頼朝には、母である由良姫を通し
て、楊貴妃伝説が伝わっていたはずです。おそらく、泉涌寺の再興に
は、源頼朝の意志があったでしょう。
●楊貴妃観音には楊貴妃を偲んで作られたという伝説がある
この泉涌寺にある楊貴妃観音は、月輪大師俊芿の弟子である湛海律師(たんかいりつし)が寛喜2年(1230)に宋の国から、持ち帰ったものと伝わってい
ます。
この楊貴妃観音は、玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈って造顕された像と伝えられていますが、材質が白檀の寄木作りで、作風からも、宋の時代に南宋で作られ、
日本に持ち込まれたのだろうとされています。
長らく100年に一度だけ公開する秘仏でしたが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されるようになりました。
●楊貴妃観音は胎内に納められた舎利を祀るために作られた
|
|
朝
日新聞 2009(平成21)年7月25日 |
この楊貴妃観音の胎内に、2000〜2001(平成13)年の
修理の時に五輪塔と舎利があるらしい事がわかり、その後、2009年の奈良国立博物館で行なわれた「
聖地寧波(ニンポー)」展に観音像を出展するのにあわせて博物館と泉涌寺が、X線撮影を試みたところ、その胎内に五輪塔があり塔の底部には 極少の舎利
3粒が入っていることが確認されました。
五輪塔は、一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれますが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在
しません。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く使われています。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力で
す。
これから考えると、この楊貴妃観音は、舶来の材料で、舶来の技術で作られているとしても、この舎利を納めるために、日本で組み立てられたものと考えるべ
きでしょう。
この楊貴妃観音の胎内に納められた舎利の正体が何なのか・・・・私には、証明の方法もありませんが・・・皆さんには見当がつくでしょう。
●泉涌寺の霊宝とされている舎利
能に「舎利」という演目があります。
これは、この泉涌寺が舞台になっていて、泉涌寺に納められていた仏舎利を、足疾鬼という鬼が盗んでいく話です。
この謡曲のモデルとなった舎利は、舎利殿に納められた仏の歯であるとされていますが、この泉涌寺の「舎利」が特に貴重な霊宝とされていた事が伺われま
す。
●七福神に加えられた楊貴妃
泉涌寺では、泉山七福神と称して、毎年、成人の日に七福神廻りをするそうです。これは、泉涌寺内にある七福神・・・即成院に福禄寿、戒光寺に弁財天、観
音寺に恵比寿神、来迎院に布袋尊、雲龍院に大黒天、悲田院に毘沙門天、法音院に寿老人とそれぞれ祀られているのを参るのですが、当日は、番外として新善光
寺の愛染明王、観音堂の楊貴妃観音を含めて参拝するのだそうです。
楊貴妃観音がとても信仰を集めてきた事がわかります。
おそらくは、この楊貴妃信仰が、泉涌寺を天皇家と関係の深い御寺にさせた原因であったでしょう。
ちなみに、楊貴妃観音と同時に番外として回ることになっている愛染明王は、天台の口伝法門では、金剛薩埵(こんごうさった)の妻とされる女神で、この明
王の手に赤烏(太陽の烏・・・すなわち金烏・三足烏のこと)を握らせる呪法が関白である藤原氏に伝わっていたそうです。
これを考えると、愛染明王も、西王母・・・すなわち、楊貴妃と同体とみなされていた
事がうかがえます。
●今熊野観音寺の「秘仏・十一面観音」に眠る楊貴妃の遺産
十一面観音・御前立(今熊野観音寺のオフィシャルサイトより) |
一方、泉涌寺の中にある今熊野観音寺には、次のような由緒が伝えられています。
「平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引い
ているのを見られました。
不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆
生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またそのときに一寸八
分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永く
この地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安されたの
が当山のはじまりです。」
私は、この老翁(熊野権現)を、南山の犬飼・稲荷神と同一人物だと考えます。
そうだとすれば、今熊野観音寺の本蔵の十一面観音は、楊貴妃をモデルとしていて、その中には、天照大神=西王母=楊貴妃の作った・・・あるいは、大事に
していた十一面観音が、納められて
いるという事になりますが・・・・この十一面観音は、秘仏になっていて拝む事が出来ません。
「本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。
体内仏として熊野権現より授かった、天照大神の御作の十一面観世音菩薩(身丈・一寸八分)が祀られています。
本尊は秘仏とされていて直接拝むことはできません。しかし代わりに同じお姿をされた御前立さまが立たれています。
脇仏は、智証大師円珍作と伝えられる不動明王と、運慶作と伝えられる毘沙門天です。」
この十一面観音の脇侍に、円珍作と伝えられる不動明王がなっているのも興味深いですね!
この十一面観音の中に、本当に、楊貴妃の一寸八
分の十一面観世音菩薩像が入っているのでしょうか?あるいは、もっと別のもの・・・例えば、楊貴妃観音のように舎利が入っているかもしれません。あるい
は、いつの時代にか取り出されて、それが、楊貴妃観音の中に移されたでしょうか?
妄想はつきません・・・。
●今熊野観音寺に残る清少納言とお柳さんの伝説
ここには、清少納言や、「熊野信仰に隠れる楊貴妃の伝説」
に示した三十三間堂の棟木になったお柳さんの伝説もあります。
清少納言は、この今熊野観音寺の近くで育ったそうです。
「キツネとヤタガラスが語る楊貴妃信仰」でも示しますが、清少納言は、枕草子に、
楊貴妃の逸話を書いています。
それから、清少納言は、かなり恋愛遍歴が激しかったと伝えられますが・・・最初の夫は、橘奈良麻呂の子孫である陸奥守・橘則光(たちばなのりみつ)で
す。あるいは、これは、ただの偶然かも
しれませんが、この清少納言と楊貴妃の間には、何か強いつながりがあったのかもしれません。
三十三間堂の棟木の伝説では、後白河法皇に、熊野の柳の事を伝えたのは、この今熊野観音の夢のお告げだったと伝えられています。私は、お柳さんの伝説
は、後白河法皇の楊貴妃信仰を伝えたものと思っていますが、もし、この十一面観音に楊貴妃の遺産が納められているとすれば、この伝説も、また、楊貴妃信仰
と今熊野観音寺・・・泉涌寺・・・・伏見稲荷の関係を表している
ように思います。
<追記> 「楊子薬師堂縁起」など多くの伝説では、後白河法皇が、熊野の柳の事を伝えられたのは、今熊野観音ではなく因幡堂であるとしています。この因幡堂は、長保5年(1003)に橘行平(たちばなゆきひら)という人物によって建てられたものです。橘行平は、橘則光の兄弟で、さらに、橘則光は、清少納言と離婚した後、この行平の娘を妻としてむかえています。この行平も、楊貴妃伝證と深い関わりのある人物であった事は疑いないでしょう。
|