龍神楊貴妃伝

稲荷神は、なぜキツネか?

伏見稲荷
伏見稲荷千本鳥居
 あなたは、稲荷神というと何を連想しますか?

 おそらく、100人中、100人がキツネを連想するのではないでしょうか?
 しかし、稲荷神とキツネが結びつく理由は、実は、あまりよくわかっていません。

●稲荷神は、元々、キツネの神ではなく、秦氏の豊穣の神だった

 稲荷神の総本山は、言うまでもなく、京都伏見稲荷です。

 伏見稲荷の由来として、次のような話があります。

 秦伊呂巨(具)(はたのいろこぐ)は、とても裕福であったので、餅を矢の的にして遊んでいたのですが、その餅が「白鳥」となって、山の峰に飛んで行きま した。そこに稲が生えてきたので、伊呂巨(具)は、その奇瑞に敬畏を覚えて、そこに社を作ったのが、伏見稲荷 の始まりなのだというのです。

 この由来には、キツネは全く登場しません。餅や稲が登場するように、もともと稲荷神は、秦氏の豊穣の神でした。

●秦氏は、楊貴妃事件に関わっていた

 秦伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」には、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年(711)2月壬午、稲 荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年(765)8月8日卒」と記されているそうです。
 すなわち、この秦伊呂巨具は、楊貴妃が日本に来ていたと想定されている時代の人物です。

 橘逸勢の祖父である橘奈良麻呂の起こした事変「橘奈良麻呂の乱」には、多くの秦氏の者が、これに加わっていました。(天平宝字元年(757)8月4日の続日本紀の記事による)

 私は、この「橘奈良麻呂の乱」は、楊貴妃からもたらされた唐の戦乱の情報を信じた奈良麻呂達が、日本の危機を憂いて起こしたものと考えていますが・・・ おそらく、秦伊呂巨具も、楊貴妃事件に深く関わっていたのではないかでしょうか?

●朝廷は、平安京を作るにあたり、稲荷山から木を切り出した

 後に、朝廷が、平安京に遷都し、東寺を創った時には、材を切り出す所がなく、稲荷神の祀られた稲荷山から大量の木を切り出したようです。

 類聚国史に『淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、天皇の健康がすぐれないために占いを求められ たところ、先朝の御願寺=東寺の塔をつくる材木 として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった、そこで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして従五位下の神階が授けられた。』とあります。

 いくら、天皇とは言え、秦氏の氏神のある稲荷山から木を勝手に切り出すなどと言う事は許されなかったのでしょう。

●空海は稲荷山から木を切り出す交換条件として、秦氏に楊貴妃を与えた

 私は、伏見稲荷がキツネと結びつく起源は、「高野山縁起2」の中で取り上げた「空海に よる稲荷灌頂」であると考えます。

 東寺の材木を稲荷山から切り出すにあたり、空海は、交換条件として、秦氏に楊貴妃という女神を与えたのではないでしょうか?・・・・渡来系の民であると される秦 氏にとって、唐の国の皇帝妃であった楊貴妃を祀るというのは、願ったりかなったりだったでしょう。

●稲荷山に楊貴妃を祀った事が、稲荷神をキツネにした

 空海は、南山の犬飼に依頼し、犬飼が自分のところ(南山=熊野=田辺)に残して祀っていた楊貴妃の遺骨を持って来てもらったのではないかと考えます。お そらく、遺骨は、杉の葉を敷き詰めた箱に入っていた事でしょう。(高野山縁起2・参照の こと)

 読んできていただいたように、空海の稲荷灌頂のお話の中にも、キツネは全く登場しません。しかし、遺骨の主である・・・楊貴妃には、キツネだという噂が たっていたでしょう。(「吒枳尼天は、なぜキツネか?」 を参照ください)

 現在、キツネが伏見稲荷の神獣となり、杉が伏見稲荷の神木となり、稲荷神がダキニ天と同一視されるようになったのは、これが理由なのだと私は考えま す。

参考
稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社 条』です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊呂巨(具)秦 公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ 或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そして「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨 (具)秦公」であったことが明記されています。
この伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神 鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
伏見稲荷大社 伊奈利社ご鎮座説話 http: //inari.jp/about/num10/
筆者注
ここで、秦氏が賀茂氏の子孫だとされているのも興味深い。「安倍晴明は狐の子」でも述べた が、賀茂保憲など、陰陽家の賀茂氏には、吉備真備を遠祖とする伝 説があった。また、賀茂氏は、八咫烏を遠祖としている。(参考 ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂建角身命)八咫烏が三足烏だとすれば、これは西王母の化身であり(「キツネとヤタガラス」参 照)秦氏が、楊貴妃を祀ったのも、これが理由であったかもしれない。

『類聚国史』34(帝王14天皇不予)・天長4年正月辛巳(19日)条 (827)
詔曰。天皇詔旨〈止〉。稲荷神前〈尓〉申給〈閉止〉申〈佐久〉。頃間御体不愈大坐〈須尓〉依〈弖〉占求〈留尓〉。稲荷神社〈乃〉樹伐〈礼留〉罪祟〈尓〉出 〈太利止〉申〈須〉。然〈毛〉此樹〈波〉。先朝〈乃〉御願寺〈乃〉塔木〈尓〉用〈牟我〉為〈尓止之天〉。東寺〈乃〉所伐〈奈利〉。今成祟〈利止〉申〈我〉 故〈尓〉。畏〈天奈毛〉内舎人従七位下大中臣雄良〈乎〉差使〈天〉。礼代〈尓〉従五位下〈乃〉冠授奉〈理〉治奉〈留〉。実〈尓〉神〈乃〉御心〈尓志〉坐 〈波〉。御病不過時日除愈給〈倍〉。縦〈比〉神〈乃〉御心〈尓波〉不在〈止毛〉。威神〈乃〉護助給〈波牟〉力〈尓〉依〈天之〉。御躬〈波〉安〈万利〉平 〈支〉給〈牟止〉。所念食〈止〉奉憑〈流止〉申給〈布〉天皇詔旨〈乎〉申給〈波久止〉申。
国学院大学神社資料データベース http: //21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=10501

類聚国史(るいじゅこくし)は編年体である六国史の記載を中国の類書にならい分類再編集したもので、菅原道真の編纂により、 892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書である。

解明された世界を強震させる真実のミステリー

どうか貴方自身の眼で確かめてみてください!

龍神楊貴妃伝1「楊貴妃渡来は流言じゃすまない」


ペーパーバック版、電子書籍版

龍神楊貴妃伝2「これこそまさに楊貴妃後伝」


ペーパーバック版、電子書籍版